ガス灯との競合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:03 UTC 版)
「静岡市営電気供給事業」の記事における「ガス灯との競合」の解説
先に触れた通り、静岡電灯の事業市営化が検討されはじめた頃、都市ガス事業の起業計画も進行中であった。具体的には、1906年6月に東京の貿易商井出百太郎が県にガス事業設立許可を出願し、翌1907年に許可を得ていたのである。不況による設立見合わせや発起人の交代という事情があり、静岡瓦斯(現・静岡ガス)として会社設立に漕ぎつけるのは1910年4月のことであった。初代社長は賀田金三郎。静岡瓦斯発起人の一人で設立時の監査役に名を連ねた人物に、静岡電灯にも関わった磯ヶ谷利光がいる。 静岡瓦斯では豊田村南安東(現・静岡市駿河区八幡)にガス工場を建設し、市営電気供給事業開業に2か月先立つ1910年12月31日より都市ガス供給を開始した。開業当初、都市ガスはガス燃焼による照明すなわちガス灯として主に利用された。照明の供給という点で電気事業と競合するが、この段階ではガス灯は電灯に対し競争力を十分持った照明であった。当時普及していた電球は発光部分(フィラメント)に炭素線を用いた炭素線電球であったが、消費電力が大きく、ガス灯と比較すると同じ明るさをともすのに2倍の費用を要した。従って経済性に安全性が加味された場合にのみ電灯が優位に立つという状況であったためである。静岡瓦斯では当初順調に供給成績を伸ばし、1914年末には灯用孔口数9259口を数えた。その他、灯用に比べると3分の1と少ないが炊事など熱用の需要、あるいはガスエンジンの利用もあった。 ところが電灯に対するガス灯の優位はタングステン電球が出現すると崩れ去った。タングステン電球は炭素線電球に比べ長寿命・高効率であり、消費電力が約3分の1に低下したことで明るさ当たりの費用もガス灯より若干廉価となったためである。先に触れた通り静岡市でのタングステン電球切り替えは1914・15年のことであるが、静岡瓦斯の灯用孔口数は1915年から減少に転じた。灯用需要の低迷を補うべく静岡瓦斯ではガス料金を値下げて熱用需要の開拓に努める方針に転換する。大戦期の原料石炭価格高騰を反映したガス料金値上げとそれに伴う需要減もあり、灯用孔口数は1921年(大正10年)には2000口(沼津での供給分を含む)を割り込んだ。
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