アラブ征服後のイラン語
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「イラン語群」の記事における「アラブ征服後のイラン語」の解説
詳細は「ペルシア文学」を参照 イラン内外ではイスラーム教徒のペルシア征服以後ペルシア語方言の地位が大きく変わった。アラブ征服時代以降、イラン・中央アジアではウマイヤ朝やアッバース朝といったイスラム帝国の支配下になったことで旧サーサーン朝のペルシア人たちやソグド人たちがムスリム化し、さらに政治的な主要言語がアラビア語になったことで、7世紀半ばから在来のイラン系サーサーン朝の言語である中期ペルシア語(パフラヴィー語)やさらにソグド人のソグド語などの中期イラン諸語による著述活動が絶無の状態に陥った。この状態はサーマーン朝が勃興する9世紀後半まで続き、これをペルシア語文学史上では「沈黙の2世紀」と呼ばれている。 権威ある文体を特徴としたパフラヴィー語と呼ばれる中期ペルシア語に代わり、かつて一方言であったダリー語が宮廷の公用語となった。「ダリー」という名称は「門扉」を意味する「ダル」 dar に由来するが、この「ダル」とは宮廷を意味する『ダルバール』 (دربار) と意味を同じくし、「宮廷語」ほどの意味になる。9世紀にアッバース朝のカリフ・マアムーンのクーデターを支援したことでホラーサーンを拠点としたサーマーン朝がマー・ワラー・アンナフルまで支配地域を広げた。かつてソグディアナの中心地であったサマルカンドにサーマーン・フダーの孫たちのうち、ヌーフ1世以来サーマーン朝の宮廷が営まれ、ここにアラビア文字とアラビア語彙を多数用いた「近世ペルシア語」が成立し、文芸復興が行われた。この宮廷には詩人・要人・文学のパトロンが文化を花咲かせた(ペルシャ文学参照)。特にマンスール1世(英語版)(マンスール・ブン・ヌーフ、在位961年 - 976年)の時代に、タバリーの『大タフスィール』や、同じく宰相バルアミー(英語版)らによる『諸使徒と諸王の歴史』のペルシア語訳が編纂され、ルーダキーやダキーキーなどに代表される最初期のペルシア語詩がそれである。875年の「ダリー語」の公用語化はサッファール朝を特徴づける出来事である。8世紀の『カリーラとディムナ』(Kalīlah wa Dimnah)の訳者イブン・ムカッファや10世紀のイブン・ナディームなど中世イランの学者がイスファハーンからアゼルバイジャン(アゼルバイジャン語参照)に至る北西地方の方言を記述するさい「パフラヴィー」という名称を用い、東部ホラーサーン地方の方言を「ダリー」という名称に関連づけていることから、「パフラヴィー語」は西部地域の方言を基にしており、対照的に「ダリー語」は東部地域の方言の影響が強かったらしい。なお「ファールスィー」、「パールスィー」(ペルシャ語)はファールス地方の方言をさしている。この新しい公用語は現代標準ペルシャ語の祖形となった。王朝固有の言語はフーゼスターンの方言であると記述されている。 イスラム征服の副産物にはアラビア文字のペルシャ語表記への使用がある。そのさいペルシャ語の音素にあわせて数文字が追加された。これはおそらく8世紀後半のことで、以後中世アラム文字は次第に使われなくなった。アラビア文字は現代ペルシャ語でも使われている。タジク語はその後ソヴィエトの国家政策により1920年代にはラテン文字が使われ、1930年代になるとソ連邦中央アジアの政府計画によりキリル文字が使われた。 イラン諸語が話される地域は異言語社会の侵入を受けてきた。イラン西部のフーゼスタンの一部ではアラビア語が話されるようになり、現在トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタンがある中央アジアの広域で従来のソグド語やバクトリア語にかわりトルコ系諸語が普及した。アゼルバイジャンでもペルシャ系言語に代わりトルコ系言語がつかわれるようになった。
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