アラブ時代
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アッバース朝時代(750 - 1517年)、ミニヤーは善政で知られる 9世紀初頭の伝説的なエジプト総督、イブン・ハシブの名を冠して呼ばれるようになった。善行に対する褒賞として何を望むかカリフに尋ねられた際、イブン・ハシブはミニヤーを選び、数年間の余生をミニヤーで過ごしたという。ミニヤーが単なる大きい村から堅固な中世都市にまで発展したのはイブン・ハシブの功績だとされている。この時代以来ミニヤーは「Munyat ibn Khasib」(イブン・ハシブのミニヤー)と呼ばれている。 ファーティマ朝(909 - 1171年)は10世紀から11世紀にかけてミニヤーを統治した。ミニヤーは拡大を続け、大モスクや学校、市場、公共浴場が造られた。この頃ミニヤーを象徴するエル・ラマティー・モスクとエル・アムラウィー・モスクが建てられた。1326年、中世期の著名な旅行家イブン・バットゥータがミニヤーを訪れた。彼は『旅行記』の中で当時ミニヤーにあった学校を賞賛し、ミニヤーが「上エジプトのいかなる町よりも優れている」と述べた。
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アラブ時代
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西暦870年、マルタは北アフリカのイスラム教徒に占領された。アル・ヒムヤリーによれば、ハラフ・アル・ハディムが率いるアグラブ朝が、アムロス知事(おそらくアンブロシオス)が統治していたビザンツ帝国の都市メリテを包囲した。アル・ハディムは戦闘で死亡し、サワーダ・イブン・ムハンマドがシチリアから派遣されて包囲を継続した。包囲の期間は不明であるが、おそらく数週間から数ヶ月に及んだと思われる。メリテが侵略者の手に落ちた後、住民は虐殺され、街は破壊され、教会も略奪された。メリテの教会の大理石は、スースの城を建てるために使用された。アル・ヒムヤリーによれば、マルタは1048年か1049年頃にイスラム教徒の共同体とその奴隷によって再定住されるまでほとんど人が住まないままだった。彼らはメリテの街をメディナとして再建し、「以前よりも立派な場所」にしたという。しかし、考古学的証拠によれば、11世紀初頭にはすでにメリテ/メディナはイスラム教徒の集落として繁栄していたとされており、アル・ヒムヤリーの記述は信憑性に欠けるかもしれない。1053年から54年にかけて、ビザンツ帝国はメディナを包囲したが、守備隊によって撃退された。彼らの支配は比較的短かったが、アラブ人はマルタに大きな影響を残した。彼らの言語であるシクロ・アラビア語に加えて、綿、オレンジ、レモン、そして灌漑における多くの新しい技術が導入された。これらのいくつかは、ノリア(水車)のように、今日でもそのまま使われている。マルタの多くの地名はこの時代にさかのぼる。
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