アラブ民族主義者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 00:03 UTC 版)
「シャキーブ・アルスラーン」の記事における「アラブ民族主義者として」の解説
1921年、彼はイスラーム改革思想家であったラシード・リダーの支持を得て国際連盟のシリア・パレスチナ会議の事務総長に任命される。1924年にはトルコのメルスィンで6年ぶりに家族と再会した。 1930年から38年までの8年間、彼はフランス語誌『アラブ民族(La Nation Arabe)』を発行し、また北アフリカをはじめとするアラブ世界の民族運動の支援にも関わった。さらに、サウジアラビアのイブン・サウード 、イエメン王国のイマーム・ヤフヤー、イラク王国のファイサル1世らと親交を結んで助言を行った。ただし、かつて彼のオスマン主義の理想に反する行動(アラブ反乱)を取ったフサインとは仲違いしたままであった。 1946年死去。
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