『江源武鑑』や諸系図類による生涯とは? わかりやすく解説

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『江源武鑑』や諸系図類による生涯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 08:46 UTC 版)

六角氏郷」の記事における「『江源武鑑』や諸系図類による生涯」の解説

元和7年1621年)、六角義郷初めの子として生まれる。幼名曽祖父六角氏綱あやかり龍武母親織田秀信の娘で、和田太夫大阪盗み取り百姓育てられていたところを義郷が娶ったのだという。元和9年1623年5月数え年3歳元服果たし四郎氏郷と称した7月9日父親の義郷が死亡家臣従え武士として京に暮らしていた。 教養深く言うべきことを言う性質で、相国寺住持愚渓等厚、汝舟妙恕とも交流があり、寛文3年1663年9月晦日には愚渓と夢窓国師降誕年代について論じ当時信じられていた説の誤り正したという。また佐々木六角氏正統として佐々木氏本家系図金泥巻き」を所持四位位階持ち後水尾天皇から院昇殿許されていたともされる京極氏所蔵していた『京極氏家臣覚書抜萃』によると、浪人ありながら四位上の者にしか許されない白小袖着用していたため、天和年間京都所司代稲葉正則取調べ受けたことがあるが、家伝の永補任御免許について言及実物持参し堂々と返答して事なきを得たという。稲葉はこの件について、丸亀藩京極高豊書状送って照会し、「六角兵部という者なら知っている」との回答得ている。また氏郷に実子がなかったことから六角家代々伝わる家宝七品を高豊に贈り、高豊の子を迎えて後継者としたという。京極高豊とはこの一件以降親交深く、氏郷は京極家から合力銀を受けていたとされる。なお氏郷は京極からの養子縁組前に養子迎えていたといい、同じ宇多源氏堂上家である庭田家から庭田雅純の子・重条がそれである。ただし重条は実兄・雅秀が病弱のため庭田家を継ぐため養子解消したという。その後筑前黒田家津和野亀井家家宝譲渡し後継者得ようとしたが、成功していない。その高豊の子を養子とした3年後に氏郷が丸亀訪れた折には、彼を京極家一門として3000石を給し丸亀迎えようとの話が出たといもいわれる。 『葉隠聞略[疑問点ノート]』においては鍋島直茂が氏郷を六角氏正統として認識していた発言記載される在野歴史研究家佐々木哲は、これらの資料から、当時の人々に氏郷が六角氏正嫡として認められていたと主張している。 元禄6年1693年)、死去享年73沙沙貴神社所蔵佐々木系図官位記載されている。なお佐々木は、氏郷と同一人物とされる沢田源内対し沙沙貴神社所蔵佐々木系図において万治3年1660年)に没した沢田郷重のことで、六角氏郷とは別人としている。この没年に従うと、氏郷と源内別人となる。

※この「『江源武鑑』や諸系図類による生涯」の解説は、「六角氏郷」の解説の一部です。
「『江源武鑑』や諸系図類による生涯」を含む「六角氏郷」の記事については、「六角氏郷」の概要を参照ください。

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