『江源武鑑』等による義郷像
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「六角義郷」の記事における「『江源武鑑』等による義郷像」の解説
『江源武鑑』によれば天正5年(1577年)1月3日辰の刻に誕生している。25日には織田信長が観音寺城を訪れ、養子にしようかと持ちかけ、重病であった父義秀はこれを受けている。これは義郷の母が信長の庶兄織田信広の娘であり、信長の養女であったためであるという。その後父が没した後の天正10年6月3日、信長を本能寺の変で討った明智光秀が居城の観音寺城を攻め、蒲生氏郷の配下が寝返ったため観音寺城は炎上、義郷は武装した乳母の若狭局によって馬に乗せられ、箕浦城に逃れた。これにより六角氏の名に従う旗頭は十分の一ほどになったという。 天正12年(1584年)9月1日、豊臣秀吉が近江の旗頭を召し出した折、秀吉は義郷の父義秀から「秀」の字を授けられたことを恩として当時8歳の義郷に名字相続と一郡を与えられたとしている。14年(1586年)には父・義秀が参議であったことから秀吉の計らいで近衛少将に任じられ、豊臣姓の称号をも授かる。天正16年(1588年)の聚楽第行幸にも随行したが、石田三成によって江国寺の領地を横領していると讒言された。翌天正17年(1589年)には秀吉の命で千石を江国寺に寄進し、11月には三日間秀吉とともに遊興に興じている。 文禄4年(1595年)、秀次事件に際しては、切腹となった秀次の家老木村重茲、熊谷大膳)らは義郷の父義秀の旧臣であったとされている。義郷は、家臣鯰江権佐の娘を秀次の側室に献上し、義秀旧臣の家老の縁もあって秀次に接近していたため、近江国で12万石を没収され改易、その身はお預けとなったという。慶長3年(1598年)の醍醐の花見では、秀吉は義郷家礼の小川土佐守(小川祐忠)、新庄雑斎の茶屋をおとずれ、義郷の話をしたという。9月3日には秀吉の遺物として大兼光の太刀を拝領したが、この太刀は父・義秀が秀吉へ諱字を与えた時に贈ったものであり、当時の公家などは奇縁を不思議がったとされる。 関ヶ原の戦いにおいては、豊臣秀頼の命として「江州前管領右兵衛督義郷」に対して、「北国表の大将」として起用するという命が下った。南条元忠を介してこの命を受けた義郷は、これを突き返した。石田三成は重ねて近江一国を与えるとの条件を出したが、なおも義郷は拒絶したという。京極高次の大津城開城後、増田長盛は志賀郡に軍勢を向けて義郷を攻めるべきだと述べた。しかし三成は大事の前の小事であり、天下を平定すれば義郷は味方となると述べ、また義郷を討とうとすれば六角氏譜代の近江一国の土民が義郷の味方をするといって攻撃をやめさせたとしている。合戦に勝利した徳川家康は、三成に味方しなかったことを喜び、義郷を召し出そうとした。しかし義郷は家康に内通していなかった身が褒賞を受けるのはおかしいと述べてこれを断った。家康は「今の世の良将である」と述べたという。 慶長6年(1601年)3月6日には、志賀郡に宇佐八幡宮を造営した。慶長15年(1610年)7月の記事では「入道」と呼ばれ、出家したことが示唆される。慶長17年(1612年)7月には将軍徳川秀忠の要請を受けて、六角家に伝わる「六人ノ華論二十一箇条」を筆写して献上した。 元和7年(1621年)6月、初めて子を儲けた。この子の母は織田秀信の娘であり、和田孫太夫が大阪で盗み取り、百姓に育てられていたところを義郷が娶ったのだという。元和9年(1623年)7月9日に逝去。享年47。
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