「男装の麗人・ターキー」へ
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「水の江瀧子」の記事における「「男装の麗人・ターキー」へ」の解説
1929年11月28日、浅草松竹座で東京松竹単独としての初公演『松竹座フォーリィズ』を上演。1930年5月に東京六大学野球をレビュー化した『松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた。1930年10月、人気が高まりつつあった東京松竹は「松組」、「竹組」の二部制を導入し、瀧子は竹組に所属した。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『先生様はお人好し』で断髪した「隣の美青年」役の瀧子。 断髪後に撮影されたブロマイド。 翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し、千秋楽の頃には楽屋にファンが大挙して訪れるなど大きな反響を呼んだ。当時、瀧子は周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋で待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置を転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子が急遽、劇中の女学生の噂話に出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面が突発的に与えられたものだった。断髪はこの準備中に行ったもので、「君、髪切れよ」と促され、「いいですよ」と即答したという。当時から宝塚少女歌劇にも男役は存在したが、長髪をネットでまとめ、その上に帽子をかぶる形で舞台に上がっており、それと比較して瀧子の頭のシルエットはすっきりとしたものになり、以後宝塚にも断髪が波及していった。これにより瀧子は松竹楽劇部で最初の男役、さらに男性様の髪型にした日本で最初の男役となった。この作品は瀧子の出世作となり、「男装の麗人」の印象を決定づけた。 なお、松竹歌劇の史誌では、前年9月に出演した『松竹オン・パレード』において短髪にした上で、シルクハットにタキシードという衣装で出演したことをもって「わが国レビュー史上はじめての、文字通り男装の麗人となった」とされているが、中山千夏の検証ではこの断髪は当時女性の間で流行していたボブカットにしたに過ぎず、当時の資料にその時の瀧子についての目立った反響もないことから、中山は「やっぱり『松竹オン・パレード』で髪をボブにしたのが画期的だったのではなくて、『先生様はお人好し』でほとんど少年なみに短く切った、それが画期的だったのだ」としている。また、同時代に出版された『評判花形大写真帖』(1933年)においても、「『先生様はお人好し』に初めて学生に扮してから、その颯爽たる男装を認められ」とある。 続く7月興行『メリー・ゴーランド』では主役に据えられ、11月には新歌舞伎座で公演を行った。このとき上演されたレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイに扮した瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得を切ったことから、以後「ターキー(書き文字では「タアキイ」が多用された)」の愛称が使われ始めた。この場面は歌劇団史誌においては「以後レビュー史上に燦然と輝く、ターキーの愛称が生れたのである」と称揚されているが、興行的には散々な不入り公演であったとされ、脚本を担当した江川幸一は「男装水の江の人気が確定したのと、『タアキイ』の名が残つただけが大きな拾ひ物と云はなければならない」と述懐している。また「ターキー」もすぐに定着したものではなく、まず瀧子ファンの間で徐々に使われていき、翌1932年7月に読売新聞に取り上げられ、それに追随して秋頃から経営陣が大々的に定着を図ったというのが実相であった。 「ターキー」の愛称を生んだカウボーイ役。 水の江会パンフレットは後に『タアキイ』と改題され一般販売もされた(表紙)。 また1931年秋には瀧子の私設後援会「水の江会」が発足。翌1932年元旦に発行された第1号パンフレットに記載された賛助会員は次のような面々であった。 永田龍雄 夏川静江 高津慶子 西條八十 如月敏 島耕二 川村花菱 鈴木善太郎 時雨音羽 梅村蓉子 中野実 津村京村 谷幹一 川口松太郎 崎山猷逸 山田五十鈴 泉博子 楢崎勲 江川宇禮雄 長崎抜天 田中絹代 園池公功 中井駿二 畑本秋一 藤田草之助 菅原寛 メイ牛山 森岩雄 袋一平 (順不同)
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