「男装の麗人・ターキー」へとは? わかりやすく解説

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「男装の麗人・ターキー」へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:58 UTC 版)

水の江瀧子」の記事における「「男装の麗人・ターキー」へ」の解説

1929年11月28日浅草松竹座東京松竹単独としての公演松竹座フォーリィズ』を上演1930年5月東京六大学野球レビュー化した松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた1930年10月人気高まりつつあった東京松竹は「組」、「竹組」の二部制を導入し瀧子は竹組に所属した。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『先生様はお人好し』で断髪した「隣の美青年」役の瀧子断髪後に撮影されブロマイド。 翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し千秋楽の頃には楽屋ファン大挙して訪れるなど大きな反響呼んだ当時瀧子周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子急遽劇中女学生噂話出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面突発的に与えられたものだった断髪はこの準備中行ったもので、「君、髪切れよ」と促され、「いいですよ」と即答したという。当時から宝塚少女歌劇にも男役存在したが、長髪ネットでまとめ、その上に帽子をかぶる形で舞台上がっており、それと比較して瀧子の頭のシルエットはすっきりとしたものになり、以後宝塚にも断髪波及していった。これにより瀧子松竹楽劇部で最初の男役、さらに男性様の髪型にした日本最初の男役となった。この作品瀧子出世作となり、「男装の麗人」の印象決定づけた。 なお、松竹歌劇の史誌では、前年9月出演した松竹オン・パレード』において短髪にした上でシルクハットタキシードという衣装出演したことをもってわが国レビュー史上はじめての、文字通り男装の麗人となった」とされているが、中山千夏検証ではこの断髪当時女性の間で流行していたボブカットにしたに過ぎず当時資料その時瀧子についての目立った反響もないことから、中山は「やっぱり松竹オン・パレード』で髪をボブにしたのが画期的だったではなくて、『先生様はお人好し』でほとんど少年なみに短く切った、それが画期的だったのだ」としている。また、同時代出版された『評判花形大写真帖』(1933年)においても、「『先生様はお人好し』に初め学生扮してから、その颯爽たる男装認められ」とある。 続く7月興行メリー・ゴーランド』では主役据えられ11月には新歌舞伎座公演行った。このとき上演されレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイ扮し瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得切ったことから、以後ターキー書き文字では「タアキイ」が多用された)」の愛称使われ始めた。この場面歌劇団史においては以後レビュー史上燦然と輝く、ターキー愛称生れのである」と称揚されているが、興行的に散々な不入り公演であったとされ、脚本担当した江川幸一は「男装水の江の人気確定したのと、『タアキイ』の名が残つただけが大きな拾ひ物と云はなければならない」と述懐している。また「ターキー」もすぐに定着したものではなく、まず瀧子ファンの間で徐々に使われていき、翌1932年7月読売新聞取り上げられ、それに追随して秋頃から経営陣大々的定着図ったというのが実相であった。 「ターキー」の愛称生んだカウボーイ役。 水の江会パンフレットは後に『タアキイ』と改題され一般販売もされた(表紙)。 また1931年秋に瀧子私設後援会水の江会」が発足。翌1932年元旦発行され第1号パンフレット記載され賛助会員次のような面々であった永田龍雄 夏川静江 高津慶子 西條八十 如月島耕二 川村花菱 鈴木善太郎 時雨音羽 梅村蓉子 中野実 津村 谷幹一 川口松太郎 崎山猷逸 山田五十鈴 泉博子 楢崎江川宇禮雄 長崎抜天 田中絹代 園池公功 中井駿二 畑本秋一 藤田之助 菅原メイ牛山 森岩雄 袋一平順不同

※この「「男装の麗人・ターキー」へ」の解説は、「水の江瀧子」の解説の一部です。
「「男装の麗人・ターキー」へ」を含む「水の江瀧子」の記事については、「水の江瀧子」の概要を参照ください。

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