「厳島」「宮島」の使い分け
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:46 UTC 版)
この島の名称について、「厳島」と「宮島」が使い分けられているが、明確な基準はない。国レベルでも取り扱いは分かれており、測量を所掌する国土地理院は「厳島(いつくしま)」の名称を用いる。一方で島内の約8割を占める国有林を管理する林野庁、周辺海域を含めた国立公園を管理する環境省は「宮島(みやじま)」の名称を用いている。読みやすさと漢字の平易さから観光PR等においては「宮島」が選ばれやすい傾向がある。 地方自治体としても、1889年(明治22年)に町制が施行時には「厳島町」であったが、第二次世界大戦後の1950年(昭和25年)には「宮島町」へ変更されるなど、行政地名にも揺れがあった。学術書や公文書の多くで「厳島」が用いられる一方、観光事業などでは「宮島」が多用される傾向がある。ただし、観光振興に関連する行政文書が「宮島」を用いたり、旅行ガイドが歴史の長さや荘厳さを演出する意図を持って「厳島」を用いる例外もある。そもそも、係る2つの地名の併存は江戸時代中期には見られた。以下に実例をあげる。 ここからは、地名(藩政村名・行政村名など)や作品(絵図、浮世絵、新版画など)の題名における併存の実例を、時系列で記載する。使われている旧字体(藝、國、圖、繪、會、禮)は全て新字体に変換する。異字・俗字はそのまま表記する。 源通親 『高倉院嚴島御幸記』/不明 治承4年(1180年)高倉院の厳島御幸に随行した源通親の紀行文。表題は厳島表記だが、中の文ではすべて宮島あるいは宮じま表記。 『平家物語』/鎌倉時代 巻第四・厳島御幸は『高倉院嚴島御幸記』を素材として書かれている。すべて厳島表記。 貝原益軒 『安芸国厳島図』/享保5年(1720年)作。 長沢芦雪 『絹本淡彩宮島八景図』/寛政6年(1794年)款記。 北尾重政 『浮絵安芸国佐伯郡厳嶋図』/18世紀後期に刊行。 歌川豊広 『日本三景』/文政年間(1818-1830年間)に刊行。 添えられている狂歌師・司馬の屋嘉門(※芝の屋山陽の別号)の漢詩には「夕日輝レ波厳島山」とある一方で、図中の説明には「安芸州宮島」とある。 歌川国貞 『紅毛油絵風 安芸の宮島』/文政8年(1825年)刊行。 歌川広重 『六十余州名所図会 安芸 厳島 祭礼之図』/嘉永6年(1854年)刊行。 歌川広重 『国尽張交図会 十五 安芸宮嶋』/幕末直前に刊行。 歌川広重 団扇絵『日本三景 安芸 厳島』/嘉永5年-安政4年(1852-1858年)中に刊行。 広重の場合、神社には「厳島」、島には「宮島」「宮嶋」の字を用いている。その後、2代目広重(歌川重宣)や3代目広重(後藤寅吉)もこの地を描いているが、いずれも神社をも画題に入れながら「宮島」「宮しま」としており、明治維新以後急速に「宮島」の名称が広まっていったことを窺わせる。その傾向が、対岸にある鉄道駅および地区名としての「宮島口」(厳島口ではない)に現れている。 2代目歌川広重 『諸国名所百景 安芸宮島汐干』/安政6年(1860年)刊行。 明治元年(1868年/1869年)、藩政村として安芸国佐伯郡に「安芸広島藩知行厳島」あり/『旧高旧領取調帳』より。 地方自治体「厳島町」の成立/1889年(明治22年)施行。 小林清親 『日本名勝図会 厳島』/1896年(明治29年)刊行。 川瀬巴水 『旅みやげ 第二集』「晴天の雪(宮嶋)」/1921年(大正10年)刊行。 地方自治体「厳島町」から「宮島町」への名称変更/1950年(昭和25年)施行。
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