「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表とは? わかりやすく解説

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「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:36 UTC 版)

白井晟一」の記事における「「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表」の解説

1953年雑誌新建築』の編集長となった川添登親交を持つ。 1955年丸木位里丸木俊夫妻描いた原爆の図》を常設展示するための美術館構想原爆堂計画」を雑誌新建築4月号に掲載する。この「計画」は依頼があって作成したものではなく、《原爆の図》を常設するための美術館構想があることを知った白井が、自発的に取り組んだのだった。この計画実現しなかったが、建築デザイン一部はのちに《親和銀行本店第1期》の設計反映された。 1956年雑誌新建築8月号で「縄文的なるもの」を発表。この論文により、白井丹下健三なども関わった「伝統論争」の論客一人みなされるうになる1957年、「新建築問題」により、川添をはじめとした白井親交のあった『新建築』の編集者が『新建築』の編集部を去る。 1960年世界デザイン会議東京開催され白井参加する白井ルイス・カーンとの対談を行う予定であったが、発熱のため中止された。この年白井としては戦後初めヨーロッパ旅行する。3ヶ月かけて、イタリアフランススペイン北欧回ったまた、この年から書に取り組むうになる1961年高村光太郎賞造型部門最初受賞者選ばれる。この時の審査員建築家谷口吉郎と、白井とはパリ面識のあった彫刻家高田博厚だった。 1962年中央公論社レーベル中公新書〉の装丁手がける。この装丁2021年現在も同新書装丁として使用されている。この年4月義兄近藤浩一路死去近藤墓碑近藤浩一路墓碑》を手がける

※この「「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表」の解説は、「白井晟一」の解説の一部です。
「「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表」を含む「白井晟一」の記事については、「白井晟一」の概要を参照ください。

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