「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表
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「白井晟一」の記事における「「原爆堂計画」と「縄文的なるもの」の発表」の解説
1953年、雑誌『新建築』の編集長となった川添登と親交を持つ。 1955年、丸木位里・丸木俊夫妻の描いた《原爆の図》を常設展示するための美術館の構想「原爆堂計画」を雑誌『新建築』4月号に掲載する。この「計画」は依頼があって作成したものではなく、《原爆の図》を常設するための美術館の構想があることを知った白井が、自発的に取り組んだものだった。この計画は実現しなかったが、建築のデザインの一部はのちに《親和銀行本店第1期》の設計に反映された。 1956年、雑誌『新建築』8月号で「縄文的なるもの」を発表。この論文により、白井は丹下健三なども関わった「伝統論争」の論客の一人とみなされるようになる。 1957年、「新建築問題」により、川添をはじめとした白井と親交のあった『新建築』の編集者が『新建築』の編集部を去る。 1960年、世界デザイン会議が東京で開催され、白井も参加する。白井はルイス・カーンとの対談を行う予定であったが、発熱のため中止された。この年、白井としては戦後初めてヨーロッパに旅行する。3ヶ月かけて、イタリアやフランス、スペイン、北欧を回った。また、この年から書に取り組むようになる。 1961年、高村光太郎賞の造型部門の最初の受賞者に選ばれる。この時の審査員は建築家の谷口吉郎と、白井とはパリで面識のあった彫刻家高田博厚だった。 1962年、中央公論社のレーベル〈中公新書〉の装丁を手がける。この装丁は2021年現在も同新書の装丁として使用されている。この年の4月、義兄近藤浩一路が死去。近藤の墓碑《近藤浩一路墓碑》を手がける。
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