伝統論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:36 UTC 版)
1952年に岡本太郎が発表した「縄文土器論」の影響を受けて、1955年『新建築』誌上での丹下と川添登の対談で提起された「縄文と弥生」というテーマを受ける形で、翌1956年同誌に掲載された白井の作品解説文『縄文的なるものー江川氏旧韮山館について』は、建築界に「伝統論争」を巻き起こしたと言われる[要出典]。ただし、実際対談や論争したことはなく、のちに吹聴されたもののようだ[要出典]。 1961年、第4回高村光太郎賞(造型部門)を受賞したことは、その後の活動への大きな励みとなる飛躍であった[要出典]。受賞は「善照寺本堂」などの業績に対してであった。 1969年、箱根国際会議場設計コンペの審査員を依頼されてから、その審査員長であった前川國男と親交があり、雲伴居(京都の施主の注文)やびわこ湖北寮などの完成を見ずに斃れた白井の死を、前川は「日本の闇を見据える同行者はもういない[要出典]」と嘆いている[要出典]。また磯崎新とも親交があり『日経アーキアクチュア』1984年1月2日号 では白井から多くを学ばせていただいたと言う。丹下健三の対極にある鏡のような存在としての建築家として近代建築の直面している問題を乗り越える手がかりについて何かと示唆を与えてくれた建築家であったとしている[要出典]。つくばセンタービルでの設計を磯崎が担当することになったことについて、白井は大変喜び、公私にわたり何かとお世話になったと言う[要出典]。
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