「原子力平和利用三原則」の提唱
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「武谷三男」の記事における「「原子力平和利用三原則」の提唱」の解説
占領下日本において原子力の研究は禁止された。1952年4月28日に講和条約が発効すると、占領下で禁止されていた原子力研究を再開する機運が日本学術会議において物理学者の間で盛り上がった。同年11月、原子炉建設に際して前提とすべき諸条件を武谷は次のように規定した。すなわち、原子爆弾の唯一の被害者である日本人は、平和的な原子力の研究を行なう権利を最も有するとした上で、「日本で行なう原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行なう原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国との秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所のいかなる場所にも、いかなる人の出入りも拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申し込んでも拒否しない。以上のことを法的に確認してから出発すべきである」と述べた(著作集3『戦争と科学』pp.154-155)。この武谷の発言は「公開・民主・自主」を3つの柱とする「原子力平和利用三原則」の原型となった。1953年12月8日、アイゼンハワー米大統領が国連総会において、「アトムズ・フォア・ピース」のための国際管理機関の設置及び核分裂物資の国際プール案を提案した。これを受けて日本では1954年3月3日、改進党代議士・中曽根康弘を中心に、2億3千5百万円の原子炉築造予算が上程され、直ちに可決された。学術会議は直ちに対抗し、まず伏見康治によって「原子力憲章」が作成され、3月20日には学術会議原子核特別委員会(朝永振一郎委員長)において原子核物理学者の意見が集約された。そして4月23日、日本学術会議第17回総会において原子力平和利用を保証する「公開・民主・自主」の三原則を訴える声明が発せられたのである。三原則の文言は1955年12月、原子力基本法に取り入れられた。しかし、肝心な点で妥協があった。原子力の研究と利用に関する「一切の情報の完全公開」が「成果の公開」に。ここから原子力開発の既成事実が累々と積み上げられた。さらに、福島第一原発事故(2011.3.11)後、原子力規制委員会設置法の成立(2012.6.20)と同時に、「原子力基本法」第2条に第2項が追加された。現行の原子力基本法第2条:「原子力利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする。2 前項の安全の確保については、……我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする」。ここで、安全保障とは軍事用語であることに留意。すなわち、今日において重要なのは「原子力平和利用三原則」を支える科学・技術思想そのものである。
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