「フランス」時代
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「フランス (客船・2代)」の記事における「「フランス」時代」の解説
「フランス」は、フレンチ・ラインの客船として、1957年10月7日にて起工された。船台は「ノルマンディー」が建造されたのと同じ場所である。1960年5月11日に進水式を迎え、シャルル・ド・ゴール大統領夫人のイヴォンヌ・ド・ゴールにより「フランス」と命名された。1961年11月19日に完成し、翌1962年2月3日に北大西洋航路に就航した。 試運転時の最高出力は17万5千馬力、速度は35.21ノットを記録したが、ブルーリボン賞を獲得していた「ユナイテッド・ステーツ」には及ばなかった。処女航海では平均速度約31ノットを記録している。 「フランス」は、2月~11月までル・アーブル~サウサンプトン~ニューヨーク間の定期航路に就航し、12月から1月にかけては、入渠整備やカリブ海でのクルーズを実施していた。 船内11の公室は11人の造船芸術家にそれぞれ個性を発揮して行わせた。 「フランス」の船内サービスは評判となり、特に古典フランス料理を提供していたレストランは、当時の料理評論家から「種類が豊富で優れた料理の数々には驚嘆する。これほどの最高の味を堪能させてくれる場所は他にはない」との高い評価を得ていたが、1960年代には大陸間の移動手段はすでに航空機の時代となっており、夏の旅行シーズンを除いて満室になることはなかった。一方で1航海に要する燃料は6000トンに及び、また多くの乗組員に対する人件費などの諸経費も膨大な額となることから、年間を通して巨額の赤字を記録し、フランス政府から多額の運航補助金を得て(一部の国会議員やマスコミから、国威発揚に名を借りたド・ゴール大統領の個人的事業だとの声もあった。実際に、建造当時のフランス国内は不況で、議会は反対していたが、ド・ゴール大統領の「フランスの栄光のため…」の鶴の一声で予算決定した)運航を続けていた。 フレンチ・ラインでは、新たな乗客層獲得のため、1972年と1974年のオフシーズンに3ヶ月間の世界一周クルーズを実施する。しかし、本船はそのサイズからパナマ運河の通行ができず、ホーン岬経由にしたため航海距離が長くなった。結果、クルーズスタッフや消耗品を輸送するために、本国~寄港地間に航空便を仕立てたり、タンカーをチャーターし燃料補給を行うなど、大変な手間と時間、経費がかかり、さらなる赤字を招いた。ついに1974年には、ド・ゴールの政敵であるヴァレリー・ジスカール・デスタンが大統領に就任したことから、長年運航補助金を支払っていたフランス政府より、補助金支給打ち切りが通告された。フレンチ・ライン単独では巨額の赤字に耐えられず、ついに「フランス」の運航中止を決断した。1974年9月11日に最後の北大西洋航路での運航を終了し、運航停止に反対する乗組員と諍いがあったものの、1974年12月をもってル・アーブルに係船された。
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