「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程とは? わかりやすく解説

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「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 07:48 UTC 版)

ローマ皇帝」の記事における「「オクタウィアヌスのローマ皇帝権」の成立過程」の解説

終身独裁官となったガイウス・ユリウス・カエサル紀元前44年殺害されると、その後権力握ったのはカエサル派のオクタウィアヌスマルクス・アントニウスマルクス・アエミリウス・レピドゥスの3人であった。3人は「国家組織するための三人官」という例外的な職を設け万機総攬する強力な権限行使した。しかし紀元前32年オクタウィアヌスアントニウスとの対立決定的となり、三人官制度は機能不全となったオクタウィアヌス紀元前31年執政官就任すると、執政官権限用いてアントニウス追い詰め紀元前30年アントニウス自殺へと追い込んだ以後オクタウィアヌス紀元前23年まで連続して執政官務め、これが紀元前23年までのオクタウィアヌス実際的な地位権限であった紀元前29年オクタウィアヌス元老院許可得てインペラトル」の語を自身個人名の一部とした。オクタウィアヌスには紀元前43年以降たびたびインペラトル称号認められていたが、称号としてのインペラトル使用には有効期限定められていた。そこでオクタウィアヌスは「インペラトル」を個人名の一部とすることによって、自身永続的にインペラトルと呼ばせることを可能としたのである紀元前27年オクタウィアヌス実質的には既に消滅していた三人官の職権元老院返却した元老院政権個人の手から市民へと返却した彼の判断称えオクタウィアヌスに「アウグストゥス尊厳なる者)」の添え名と、一部属州対すプロコンスル命令とを与えたとはいえ「アウグストゥス」の添え名何らかの権限特典をともなうものではなかったし、プロコンスル命令にしても元老院によって割り当てられ属州においてだけ行使できる局所的な軍事命令にすぎなかった。しかもプロコンスル命令オクタウィアヌスローマ市出て初めて有効となる性質のもので、オクタウィアヌス首都ローマにいる間には命令行使することすらできなかった。そのため、オクタウィアヌス実質的な権限紀元前31年より務めている執政官職権拠っていた。 紀元前24年オクタウィアヌス属州総督起こした不祥事について執政官として責任問われ元老院より法廷への出頭命じられた。オクタウィアヌス法廷において反対弁論行い有罪判決免れることには成功したが、オクタウィアヌス同僚には有罪判決下されそのまま処刑されてしまった。これによって執政官という最も責任ある役職とどまり続けることの危険性が明らかとなった古代ローマにおいて公的権力振るう公職者は、その権力相応し責任を果たさなければならなかったからである。オクタウィアヌス執政官として権限と責任とを天秤にかけ、執政官の職を手放すこととした。 紀元前23年オクタウィアヌス元老院交渉行い執政官の職を返却する見返りとして自身への護民官職権付与認めさせ、また紀元前27年与えられていたプロコンスル命令拡大させた。これによりオクタウィアヌスプロコンスル命令プロコンスル上級命令権となり、全属州において他のプロコンスル命令よりも優先される命令となった。また護民官職権付与によってオクタウィアヌスは、実際に護民官就任して護民官として責任を負うことなく護民官有する請願救済権神聖不可侵元老院への出席などを行使することができるようになったオクタウィアヌス護民官職権極めて重視し自身治世護民官職権与えられ紀元前23年から数えている。 しかし護民官職権にせよプロコンスル上級命令権にせよ、最高官職である執政官辞任したことによってできた権力の空白十分に埋めることはできなかった。プロコンスル上級命令権プロコンスル命令同様にイタリア本土に対して無効とされていたし護民官職権権限ローマ市内とローマ市から1マイルまでの範囲内限られていた。現実問題として紀元前23年時点では、オクタウィアヌスには実際的な政治的権限不足していたのである実際オクタウィアヌス重要な政治的行動多くを、護民官職権によってではなく現職執政官への助言請願通して行っている。 しかし、天運オクタウィアヌス味方することになった紀元前22年イタリアにおいて疫病災害発生し人々はこれらの天変地異オクタウィアヌス執政官辞任対す神々意思関連付けた。ローマ市民オクタウィアヌス執政官就任要望したが、これまでの経緯からオクタウィアヌス執政官への就任固辞した。そして紀元前19年ローマ市民オクタウィアヌスとの間で妥協図られオクタウィアヌスには執政官就任することなく行使できる執政官職権付与されることとなった。これ以降執政官職権護民官職権とがイタリア本土におけるオクタウィアヌス法的権限となった。ここに至ってついに、オクタウィアヌスによる一人支配体制(モナルキア)は、その決定的状態に達したのであるその後オクタウィアヌスは、紀元前12年レピドゥス後任としてポンティフェクス・マクシムス就任し自身国家宗教に関する意思決定中心に位置づけた。紀元前2年には長年国家への貢献賞され元老院より国父英語版)の称号贈られた。紀元後14年オクタウィアヌス南イタリアの町ノラ病没すると、元老院議員ヌメリウス・アッティクスが「彼が天に昇るのを見た」と証言し、この証言もとづいてオクタウィアヌス神格化することが元老院議決された。 オクタウィアヌス遺言により、オクタウィアヌス残した遺産3分の2後妻リウィア・ドルシッラ連れ子ティベリウスへと相続された。また同時にリウィアティベリウス2人オクタウィアヌス添え名アウグストゥス」を名乗るようにとも遺言されていた。今日人々は、これによってティベリウス新しローマ皇帝となった、と認識するのである。しかし実際のところ、ティベリウスインペラトルの名前を相続することはしなかったし、オクタウィアヌスより贈られアウグストゥス添え名さえも用いることは希であったティベリウス対す即位式戴冠式のようなものはなかったし、ティベリウス自身治世オクタウィアヌスの死から数えるようなことはしなかった。一般に最初ローマ皇帝であると認識されているオクタウィアヌスの死の段階においてさえ、今日ローマ皇帝」と呼ばれているような単一概念認識されていなかったのである

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