「ひのくに」から「多磨」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 01:48 UTC 版)
「持田勝穂」の記事における「「ひのくに」から「多磨」へ」の解説
1929年(昭和4年)24歳 - 3月「ひのくに」の印刷所を佐賀に移す。9月、勤務演習のため二十四連隊第一中隊に入営。歩兵一等卒となる。作歌の傍ら民謡、童謡等に興味を持ち、多分に白秋の影響を受ける。それらの作品は「民謡音楽」「民謡詩人」「民謡月刊」等に発表。 1930年(昭和5年)25歳 - 3月、四女モナミ生る。5月、八幡製鉄所歌制作の機会に帰郷した北原白秋を柳川の山田屋に訪う。8月、霧島火山群峰を登破。この年「九州文学」の原田種夫、山田牙城らを知る。 1931年(昭和6年)26歳 - 自由律短歌を主唱する「詩歌」から前田夕暮の承諾を得て同人を辞し「香蘭」の準同人となり六月号に出詠。これにより北原白秋の歌風を直に学ぶこととなる。民謡、童謡の作品は夥しいものがあり、童謡雑誌「チチノキ」に加わる。与田準一、巽聖歌、田中善徳らを知る。この夏、久住連峰に登る。 1932年(昭和7年)27歳 - 5月、長男進一郎生る。7月「九州民謡」に作品「夜道送って」を発表。この作品は後に杵屋佐吉作曲により東京・朝日講堂において公演。この夏、阿蘇根子岳に登る。福岡に征峰山岳会を組織する。10月、福岡・糸島新聞社募集の作品「糸島小唄」を筆名有島浩で一等当選。思うところがあって、一切の民謡雑誌から手を引く。11月、北原白秋創刊「短歌民族」第一輯に参加。12月「歌謡作品」発刊の準備をすすめる。この冬、青柳喜兵衛と交遊。 1933年(昭和8年)28歳 - 4月、クオタリー「歌謡作品」第一輯刊行。6月、北原白秋編集「短歌民族」第二輯に参加。杵屋佐吉による作品がはじめて東京放送局(JOAK/現:NHKラジオ第1東京)より放送。7月、クオタリー「歌謡作品」第二輯刊行。8月、「香蘭」に作品「山茶花(6首)」。北原白秋編集「全貌」第一集に月刊「九州」募集の白秋選九州小唄「関門」が入選。10月、クオタリー「歌謡作品」第三輯刊行。 1934年(昭和9年)34歳 - 2月、クオタリー「歌謡作品」第四輯刊行。4月「香蘭」に作品「春宵雑歌」6月、クオタリー「歌謡作品」第五輯刊行。9月、北原白秋「香蘭」顧問を辞す。12月、五女彩子生る。この夏、早大、慶大、九大等の学生らによる「南方派」創刊に客員として参加、詩「山霊」「雪の朝」等を発表。ニットーレコード吹き込み作品は7曲。ラジオ放送される作品も多数に及ぶ。5月「福岡山の会」入会(1959年11月まで26年間会員)。 1936年(昭和10年)30歳 - 3月、北原白秋「多磨」創刊宣言。4月「香蘭」第一同人とされたが辞表提出して白秋に随順する。これより民謡、童謡の作詩を断念し短歌に専念する。6月「多磨」創刊。第二同人となり作品「戦艦榛名(5首)」「筑紫山脈(4首)」を掲載。7月「多磨」に作品「環水荘(8首)」8月、福岡の北原白秋歓迎詩話会、福岡白秋会を各々開催。白秋からレインコート、鳥打帽を受ける(2日)。北原白秋小倉歓迎会に出席(3日)。「多磨」九州支部創立歌会に出席(13日)。「多磨」福岡支部創立歌会に出席(24日)。10月、「多磨」に作品「高千穂(17首)」。
※この「「ひのくに」から「多磨」へ」の解説は、「持田勝穂」の解説の一部です。
「「ひのくに」から「多磨」へ」を含む「持田勝穂」の記事については、「持田勝穂」の概要を参照ください。
- 「ひのくに」から「多磨」へのページへのリンク