月岡芳年 月岡芳年の概要

月岡芳年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/27 14:00 UTC 版)

月岡 芳年
肖像写真
1882年明治15年)撮影
生誕吉岡 米次郎(よしおか よねじろう)
天保10年3月17日1839年4月30日
日本 武蔵国豊島郡新橋南大坂町(現在の東京都中央区銀座八丁目6番)[1]
死没明治25年(1892年6月9日
(満53歳没)
日本 東京市本所区藤代町(現在の東京都墨田区両国
国籍 日本
教育歌川国芳門下
著名な実績浮世絵
代表作英名二十八衆句
『奥州安達がはらひとつ家の図』
『大日本名将鑑』
月百姿
新形三十六怪撰
後援者 秋山武右衛門地本問屋「滑稽堂」)
影響を受けた
芸術家
歌川国芳(師事)と歌川派月岡雪斎(師事)、四条派(師事)
影響を与えた
芸術家
水野年方伊藤晴雨江戸川乱歩三島由紀夫横尾忠則、ほか

河鍋暁斎落合芳幾歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている(後述)。

概説

歴史絵美人画役者絵風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がけ、各分野において独特の画風を見せる絵師である。多数の作品があるなかで決して多いとは言えない点数でありながら、衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。昭和時代などは、陰惨な場面を好んで描く絵師というイメージが勝って一般的人気(専門家の評価とは別)の振るわないところがあったが、その後、画業全般が広く知られるようになるに連れて、一般にも再評価される絵師の一人となっている。

生涯

新暦導入以前(1872年以前)の日付和暦による旧暦を主とし、丸括弧内に西暦1582年以降はグレゴリオ暦)を添える。同年4月(4月)は旧暦4月(新暦4月)、同年4月(4月か5月)は旧暦4月(新暦では5月の可能性もあり)の意。

「藤原保昌月下弄笛図」(1883年)
今昔物語集宇治拾遺物語に書かれた説話が題材で、盗賊の袴垂(はかまだれ)が笛を吹いている藤原保昌に襲い掛かろうとするが、保昌の人を寄せ付けない気配により動けない様子を描いている。この作品は芳年の代表作のひとつと見なされている[2]
『奥州安達がはらひとつ家の図』
黒塚鬼婆伝説を題材にした一図。気狂いして食人鬼と化した老女が今宵もまた捕らえてきた身重の女を吊るして今まさに解体しようとしている場面である。1885年(明治18年)に刊行されたが、明治政府風俗壊乱としてこれを発禁処分にした。

天保10年3月17日1839年4月30日)、江戸新橋南大坂町(武蔵国豊島郡新橋南大坂町[現・東京都中央区銀座八丁目6番]。他説では、武蔵国豊島郡大久保[現・東京都新宿区大久保])の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。のちに、京都の画家の家である月岡家・月岡雪斎養子となる(自称の説有り、他に父の従兄弟であった薬種京屋織三郎の養子となったのち、初めに松月という四条派の絵師についていたが、これでは売れないと見限って歌川国芳に入門したという話もある)。

嘉永3年(1850年)、12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵役者絵などを手掛ける。

嘉永6年(1853年)、15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』(大判3枚続)を一魁斎芳年で発表。

慶応元年(1865年)に祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承、中橋に居住した。

慶応2年(1866年)には橘町2丁目に住し、同年12月から慶応3年(1867年)6月にかけて、兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。一連の血なまぐさい作品のなかでも、殊に凄まじいものであった。明治元年1868年)、『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。続いて、明治2年(1869年)頃までに『東錦浮世稿談』などを発表する。この頃、桶町、日吉町に住む。

明治3年(1870年)頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。1872年(明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。翌1873年(明治6年)には立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。また、従来の浮世絵に飽き足らずに菊池容斎の画風や洋風画などを研究し、本格的な画技を伸ばすことに努め、歴史的な事件に取材した作品を多く描いた。

1874年(明治7年)、6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。芳幾の新聞錦絵に刺激を受け、同年には『名誉新聞』を開始、1875年(明治8年)、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。1876年(明治9年)、南金六町に住む。

1877年(明治10年)に西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。

1878年(明治11年)には丸屋町に住んでおり、天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。1879年(明治12年)に再び南金六町に戻り、さらに宮永町へ転居しているが、この時期、手伝いにきていた坂巻婦人の娘・坂巻泰と出会っている。 1882年(明治15年)、絵入自由新聞に月給百円の高給で入社するが、1884年(明治17年)に『自由燈』に挿絵を描いたことで絵入自由新聞と問題になる。また、『読売新聞』にも挿絵を描く。1883年(明治16年)、『根津花やしき大松楼』に描かれている幻太夫との関係も生じるが、別れ、翌1884年(明治17年)、坂巻泰と正式に結婚する。

1885年(明治18年)、代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』(当時の東京府における人気番付)明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾小林永濯豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。この年、浅草須賀町に移る。

1886年(明治19年)10月、やまと新聞社に入社、錦絵『近世人物誌』を2年継続して掲載する。

1888年(明治21年)、「近世人物誌」を20でやめ、錦絵新聞附録とする。この時期までに200人余りの弟子がいたといわれる。

その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作るが、それに危機を覚えてか、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。また、弟子たちを他の画家に送り込んでさまざまな分野で活躍させた。

1891年(明治24年)、ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。また、現金を盗まれるなど不運が続く。5、6年暮らした浅草の自宅の家相がよくないと聞き、日本橋浜町に新築するため、本所亀沢町に仮寓する[3]

1892年(明治25年)、新富座の絵看板を右田年英を助手にして製作するものの、病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。6月9日東京市本所区藤代町(現・東京都墨田区両国)の仮寓(仮の住まい)で脳充血のために死亡した(享年54、53歳没)。しかし、『やまと新聞』では6月10日の記事に「昨年来の精神病の気味は快方に向かい、自宅で加療中、他の病気に襲われた」とある。

芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。法名は大蘇院釈芳年居士。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑(月岡芳年翁之碑)が建てられた。

画風・画題

江戸川乱歩三島由紀夫などの偏愛のため「芳年といえば無惨絵」と思われがちであるが、その画業は幅広く、歴史絵・美人画・風俗画・古典画にわたる。近年はこれら無惨絵以外の分野でも再評価されてきている。師匠・歌川国芳譲りの武者絵が特に秀逸である。

もともと四条派の画家に弟子入りしたためか、本人の曰く「四条派の影響を強く受けた」肉筆画も手がけている。彼自身、浮世絵だけを学ぶことをよしとしなかったため、様々な画風を学んでいる。写生を重要視している。

芳年の絵には師の国芳から受け継いだ華麗な色遣い、自在な技法が見える。しかし、師匠以上に構図や技法の点で工夫が見られる。動きの瞬間をストップモーションのように止めて見せる技法は、昭和期以降に発展してきた漫画劇画にも通じるものがあり、劇画の先駆者との評もある。

歴史絵・武者絵

『大日本史略図会』中の日本武尊や、1883年(明治16年)の大判3枚続『藤原保昌月下弄笛図』(千葉市美術館所蔵)など、芳年には歴史絵の傑作がある。明治という時代のせいか、彼の描く歴史上の人物は型どおりに納まらず、近代の自意識を感じさせるものとなっている。

美人画・風俗画

美人画・風俗画も手がけており、『風俗三十二相』でみずみずしい女性たちを描いた。

無惨絵

初期の作品『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)では、血を表現するにあたって、染料を混ぜて光らすなどの工夫をしている。この作品は歌川国芳(一勇斎国芳)の『鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわざもの)』に触発されて作られた。これは芝居小屋の中の血みどろを参考にしている。当時はこのような見世物が流行っていた。

芳年は写生を大切にしており、幕末の動乱期には斬首された生首を、明治元年1868年)の戊辰戦争では戦場の屍を弟子を連れて写生している。しかし、想像力を駆使して描くこともあり、1885年(明治18年)に刊行された代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』など、その一例と言える。責め絵(主に女性を縛った絵)で有名な伊藤晴雨は、この絵を見た後、芳年が多くの作品で実践するのと同じく実際に妊婦を吊るして写生したのか気になり、妻の勧めで妊娠中の彼女を吊るして実験したという。そうして撮った写真を分析したところ、おかしな点があったため、モデルを仕立てての写生ではなく想像によって描かれたという結論に達した。その後、芳年の弟子にこのことを話すと、弟子は「師匠がその写真を見たら大変喜ぶだろう」と答えたという。

その他の画題

月に対しては名前のせいもあって思い入れがあるようで、月の出てくる作品が多く、『月百姿』という100枚にもおよぶ連作も手がけている。これは芳年晩年の傑作とされる。幽霊画も『幽霊之図』『宿場女郎図』などを描いており、芳年自身が女郎の幽霊を見たといわれている。




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