大槻文彦 大槻文彦の概要

大槻文彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 07:25 UTC 版)

大槻文彦
人物情報
別名 清復(諱)
復三郎(通称)
復軒(号)
生誕 弘化4年11月15日 (1847-12-22) 1847年12月22日
武蔵国江戸木挽町
死没 (1928-02-17) 1928年2月17日(80歳没)
大日本帝国東京府
肺炎
国籍 大日本帝国
出身校 大学南校
両親 父:大槻磐渓
学問
時代 明治大正昭和
研究分野 日本語学
研究機関 明六社
洋々社
帝国学士院
宮城師範学校
宮城県尋常中学校
国語調査委員会
学位 文学博士
主な業績 近代的国語辞典の嚆矢となる編纂法の完成
規範となる日本語文典の完成
口語研究の可能性を開拓
主要な作品言海
『広日本文典』
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人物

大槻文彦の胸像
宮城県仙台第一高等学校

日本初の近代的国語辞典言海』の編纂者として著名で、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名である[要出典]

経歴

一ノ関駅前の大槻三賢人像(文彦は左側)

儒学者・大槻磐渓の三男として江戸木挽町に生まれる。兄に漢学者の大槻如電、祖父に蘭学者大槻玄沢がいる。幕末には鳥羽・伏見の戦いにも参戦、また仙台藩密偵として江戸に潜伏、情報収集にも当った[注 1]戊辰戦争後に旧幕府側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の磐渓が戦犯となった際には、兄の如電とともに助命運動に奔走した[1]

開成所仙台藩校養賢堂英学数学蘭学を修める。1867年には、英国人牧師マイケル・ベイリーが創刊した『万国新聞紙』の記者、編集員を務めた[2]

その後、大学南校で英学を学んだ後、1872年文部省に入省。1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。自費出版を条件に文部省から原稿が払い下げられた[3]

1912年4月、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、増補途中の1928年2月17日に、自宅で肺炎のため死去した[4]

業績

『言海』は近代的国語辞典の嚆矢として、後世の国語辞典の模範となった[5]。大槻は「発音」「品詞」「語源」「意味記述」「出典」が必須であるとするが、これにより近代的な国語辞典の体裁が整ったのである[5]

『言海』執筆の過程で、国学の文法理論を踏まえながら英語に即して日本語の文法を体系づけた[6]。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語の文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された[6]。これは大きな副産物といえるが、「日本語の本態を抑圧した」などの問題点を山田孝雄などから批判されている[7]

国語調査委員会に所属していた頃に刊行された『口語法』は、同委員会の全国調査を参考にしつつ、当時の口語の規範を示した[8]。その付録の『口語法別記』において大槻が、標準を定めるにあたって歴史的な変遷と方言分布を検証した方法は、後の口語研究の可能性を開拓したとされる[6]

『言海』の出版とその意義

19世紀20世紀にかけて、など「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、米国の『ウェブスター大辞典』、英国の『オックスフォード英語辞典』、フランスのエミール・リトレ英語版による『フランス語辞典』、ドイツのグリム兄弟による『ドイツ語辞典』などがある[9]。『言海』の編纂も、そうした世界史的な流れの一環としてみることができる。

『言海』完成祝賀会

1891年6月23日、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣伊藤博文をはじめとし、山田顕義大木喬任榎本武揚谷干城勝海舟土方久元加藤弘之津田真道陸羯南矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した[10]。なお、父・磐渓以来大槻家と親交のあった福澤諭吉も招待されたが、次第書(祝賀会プログラム)で自分の名が、伊藤の下にあるのを見て「私は伊藤の尾につくのはいやだ。学者の立場から政治家と伍をなすのを好まぬ」と、出席を辞退したという[11]

著書


注釈

  1. ^ これは江戸言葉であることを見込まれたからだという[1]
  2. ^ 伊達騒動の基本資料となっている[12]

出典

  1. ^ a b 大槻文彦 (1928), p. 41.
  2. ^ 後藤斉 東北大学文学研究科 『大槻文彦の諸相』
  3. ^ 『玄沢・磐渓・文彦』一関市博物館(2022年1月15日)
  4. ^ 服部敏良 (2010), p. 67.
  5. ^ a b 湯浅茂雄 (2016), p. 90.
  6. ^ a b c 湯浅茂雄 (2016), p. 91.
  7. ^ 斎藤倫明 (2016), p. 114.
  8. ^ 湯浅茂雄 (2016), p. 89.
  9. ^ 施光恒 (2015), pp. 85–86.
  10. ^ 大槻文彦 (1928), p. 49.
  11. ^ 大槻文彦 (1928), p. 48.
  12. ^ 平川新 (2022), pp. 247–249.
  13. ^ 『ダ・ダ・スコ』p25-29
  14. ^ 宗家の代数:『GENTAKU』一関市博物館(2007年)


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広日本文典 デジタル大辞泉
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8
群起 デジタル大辞泉
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言海 デジタル大辞泉
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