韓国併合
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評価と争点
日本側では、韓国併合を否定的に評価する見方と、併合が朝鮮半島の近代化に寄与したと肯定的に評価する見方とがあり、対立している。一方で韓国側では、併合を否定的に評価する見方が多数であり、肯定的な意見は容認されないケースが多い。
韓国における併合への肯定的な見方、及び争点と評価(歴史認識)の相違については下記節を参照。
大韓民国などにおける日本統治時代の評価
独立後の韓国の歴史学者は、日本による統治を正当化する日本側の歴史研究を「植民地史観」と呼び、これを強く批判することから出発した。「植民地史観」に対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった(下記節「歴史認識の比較表」を参照)。また、韓国国内で韓国併合を肯定的に評価するなど「民族史観」と矛盾する内容を発言すると、親日派として糾弾され、社会的制裁を受ける事例もある[注釈 8]。そうした韓国の言論の状況について、国際新聞編集者協会は韓国を「言論弾圧国」[58]として批判しており、2002年にはロシア、ベネズエラ、スリランカ、ジンバブエとともに「言論監視対象国」に指定した[59]。ただし、その発表は国境なき記者団が発表した世界報道自由度ランキング(Press Freedom Index)とは完全に相反し、公信力にかなりの疑問を買っている。この発表では、2002年の韓国の言論自由指数は世界39位(10.50点)であり、世界40位(11.0点)を占めたイタリアと似ている。また、2002年Freedom Houseが発表した言論自由指数で、韓国は30点でギリシャ、イスラエルのような「自由(Free)」国家に分類された。
一方で1990年代から2000年代にかけて、「民族史観」を誇張が多いとして批判するなど、「民族史観」とは異なる見解が韓国内からも提示されるようになっている。本節では、下記節「歴史認識の比較表」に入らない、韓国における肯定的見解(ないしは「植民地史観」「民族史観」への批判的見解)を記述する。
- 金完燮は、当時の朝鮮は腐敗した李朝により混乱の極みにあった非常に貧しい国であり、日本が野望を持って進出するような富も文化もなかった、とする。彼によれば近代日本の歩みは列強、特に当時極東へ進出しつつあったロシアとの長きにわたる戦いであり、日清戦争から日露戦争そして韓国併合に至る一連の出来事は全て日本の独立を守るための行為であった。当初日本は、福沢諭吉の門下生の金玉均を始めとする日本で文明に触れた朝鮮人を通して、朝鮮が清から独立し近代国家となって日本にとっての同盟国となることを望んだ。しかしながら朝鮮人自身の手で朝鮮を改革しようとする試みは頓挫し、福沢諭吉が脱亜論を著したように方針を転換。日本自らの元で清、そしてロシアから朝鮮半島を守り、朝鮮を近代化する道を選んだ。その後日本は朝鮮を「日本化」することによって教養ある日本人を増大させることによる国力の増加を目指し、積極的にインフラへ投資した。朝鮮が自分たちで独立を保ち、近代化を成し遂げることが出来れば併合されることもなかったであろうし、日本によるこれらの植民地政策がなければ近代化することもなかったであろう、として韓国における歴史教育を批判している[60]。これらの言動・著作から彼は親日派として弾圧を受けている[注釈 9]。
- ソウル大学名誉教授の安秉直や成均館大学教授の李大根は、日本植民地統治下の朝鮮において、日本資本の主導下で資本主義化が展開し、朝鮮人も比較的積極的に適応していき、一定の成長が見られたとしている。
- ソウル大学教授の李栄薫は、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論を提示する[61]が、韓国国内では少数派である。彼もまた親日派として糾弾されている。
- 崔基鎬も、李氏朝鮮の末期には、親露派と親清派が内部抗争を続ける膠着状態にあり、清とロシアに勝利した日本の支配は歴史の必然であり、さらに日韓併合による半島の近代化は韓民族にとって大いなる善であったとしている[62]。
- 元韓国空軍大佐の崔三然も、「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言し、肯定的に併合時代を評価した上で日本政府の行動を批判している[63]。
- 当時の併合時代に育ち、のちカナダに移住した朴贊雄(パク・チャンウン)は2010年に発表した著書で「前途に希望が持てる時代だった」「韓国史のなかで、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」として、統治時代の肯定的側面を公正に見ることが真の日韓親善に繋がると主張している[64]。
- 2004年に、東亜日報社長の権五琦(クォン・オギ)は新しい歴史教科書をつくる会による教科書について特に反発を感じないとしながら、「韓国でも併合に一部のものが賛成していた」という同教科書の記述については「『韓国人はみんな日本に抵抗した』と自慢したいのが韓国人の心情かもしれないが、本当はそうでないんだから、韓国人こそがこの教科書から学ぶべきだ」「どの程度の『一部』だったか知ることは、何もなかったと信じているより韓国人のためになる」と発言している[65]。
- 漢陽大学名誉教授で日露戦争や韓国併合についての著書もある歴史学者崔文衡(チェ・ムンヒョン)は、左派寄り教科書とされる金星出版社『高等学校韓国近現代史教科書』における「日帝が韓国を完全に併合するまで5年もかかったのは義兵抗争のため」といった記述に関して、事実とは異なるとしたうえで、ロシアが米国と協力し満州から日本の勢力を追い出そうとする露米による対日牽制などの折衝を日本が克服するために併合に時間がかかったのだとした[66][67]。また、「代案教科書[注釈 10]」における安重根による伊藤博文狙撃が併合論を早めたとする記述についても、併合は1909年7月6日の閣議で確定しており、安の狙撃で併合論が左右されたのではないと指摘したうえで、双方の教科書に代表されるような、当時の世界情勢や国際関係を看過する史観について「自分たちの歴史の主体的力量を強調する余り、国際情勢を無視し、歴史的事実のつじつまを合わせようとしている」と批判し[66]、世界史において韓国史を理解しようとしない教育は「鎖国化教育」であるとした[注釈 11]。
- 高麗大学名誉教授(当時)の政治学者韓昇助は2005年に日本の雑誌『正論』に、日本による韓国併合はロシアによる支配に比べて「不幸中の幸い」であったとし、また日本による諸政策で朝鮮半島の近代化が進展したと肯定的に評価する論文を発表した[68]。この論文は韓国国内で問題視され、その結果、韓昇助は謝罪したうえで名誉教授職を辞任した[69]。
- 元韓国国土開発研究院長金儀遠は、戦前日本の国土計画では朝鮮人を満洲に追放して京城を日本の首都としようとしたと主張する一方で、日本が朝鮮で鉄道・道路・港湾・学校を建設したことについて「 日本人が私たちから搾取して建設したという主張があるが、事実と違う。朝鮮総督府の予算を分析すると、朝鮮で集めた税金は農地税程度であり、これでは当時の公務員の月給の10分の1にもならなかった。総督府の役人が本国に行ってロビー活動をし、予算を確保した。もちろん鉄道などは大陸進出のため」であった と語っている[70]。
- 第4代台湾総統の李登輝は2012年3月、日本の保守系団体のインタビューに答えた。これはBS11『INsideOUT』で4月に放送された。日本統治時代は韓国人より台湾人のほうが差別されていたのに不満はないのか、という問いに対し、韓国は併合と言われていたのに、そしてほとんど原野だった台湾と違って元々ちゃんとした国だったのに、植民地の様にあつかわわれ、国名も「日本」のままだったのだから、インフラをあの程度、整えたぐらいでは彼らは不満だ、と答えた[71]。
- 黄文雄は、「佐藤栄作元首相が述べていたように、日韓併合条約は『対等の立場で、また自由意思で締結された』とみるのが、当時の国際条約の歴史からして妥当だろう。戦後の韓国人は、日韓合邦によって国と主権が奪われ、受難の時代が始まったと思い込んでいる。だが十九世紀から二十世紀初頭までの李朝朝鮮が『主権国家』だったと考えるのは大きな間違いだ。その実体は中国の『千年属国』である。唐に従った従属した統一新羅以来、朝鮮半島はずっと中華帝国の一属藩、あるいは『藩屏』として中華帝国に所属してきたのである。今は近代国民国家が一般的な『国のかたち』(国家形態)として拡散しているが、そうなる前は、朝鮮は国際的に『主権国家』とみなされていなかった。それまでの東亜世界における世界秩序を主宰してきたのは中華である。中華の天朝朝貢・冊封秩序が、東亜世界の核であり、主権国家の概念は十九世紀の国際政治では普及していなかった。そのため、李朝朝鮮の主権はいかなる国からも認知されていなかったというのが、歴史の常識である」と述べている[72]。
- 韓国開発研究院とハーバード大学国際開発研究所の共同研究『韓国経済社会の近代化』(1980年)は、日本の統治は近代的経済発展の礎石を置いたもので、戦後の南北分断のような災厄と同列にはおけず、バランスのとれた工業化が進行し、道路、鉄道、電信、港湾のインフラが整備され、植民地型経済とは異質の経済が形成され、農業分野では、戦後多くの発展途上国が取り組んだ「緑の革命」はすでにこの時代に達成されていたと指摘しており、プリンストン大学教授のコーリは、かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮なみの水準に達した国は今なお存在しないのではないかと述べている[73]。
日本国内における研究・日本人研究者の評価
- 木村光彦は、統計資料等をもとに実証的な検証を行い、「総合的に見れば、日本は朝鮮を、比較的低コストで巧みに統治したといえよう。巧みに、というのは、治安の維持に成功するとともに経済成長(近代化と言い換えてもよい)を促進したからである。しかし、一九四〇年代に入ると、米国との戦争が状況を一変させた。日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込んだ[74]」として、現代につながる日韓の歴史問題は第二次世界大戦期に主に発生したと総括している。
- 姜尚中とダニ・オルバフ(ヘブライ大学)は、「同じ大日本帝国の植民地だったのに、台湾は親日的なのに、韓国が反日的なのはなぜか」という対談において、【ダニ・オルバフ】「『植民地』としての朝鮮半島は天皇直属です。同じ『植民地』でも台湾は内閣直属でした」【姜尚中】「そうですね。今、日本人はどうして台湾が親日的なのに韓国が反日的なんだろと考えますよね。でもそれは、台湾統治と朝鮮半島の統治の組織構造の違いを考えると分かります」【ダニ・オルバフ】「当時の大日本帝国憲法のわずかな権利すら民衆に与えず、総督が天皇の代理人として弾圧できたのが朝鮮でした。朝鮮では総督が代々陸海軍大将であったのに比べ、台湾では1919年から1936年まで貴族院議員の政治家が続きました」【姜尚中】「天皇直属となれば、時の政府は口出しはできません。台湾と朝鮮半島でどうしてこのような統治の違いになったのかが不思議なのですが、天皇統治とはある意味、統帥権が不可侵であるのと同じです。最終的に同化政策の時は、君たちは日本の本土にいる人たちと変わらない、ということになります。天皇の愛顧をみんなにあげるというのは大変な恩恵であるという発想です。それを天皇統治では一方的にどんどん進めていくことになり、朝鮮半島の日本に対する評価が変わってくるわけです」と述べている[75][76]。
- 台北駐日経済文化代表処代表を務めた羅福全は、平井敏晴(漢陽女子大学校)の取材に対して、「韓国が日本に反発してしまう理由はいろいろありますが、私がまず思うのは、王朝があったからですよ。台湾にはなかったでしょ」「(戦後、台湾に入城した中華民国軍の)大陸から台湾にやって来た人たちの格好を見て、台湾の人たちが愕然としたんですよ。身なりはひどいし、兵器は旧式で、日本のものと比べると雲泥の差がありましたから」「日本の台湾統治は黒字で、朝鮮統治は赤字だったんですよ。日本は成功した台湾をモデルケースにして朝鮮統治に臨んだけど、うまくいかなかった。その結果、日本人は台湾人に対するのと同じように朝鮮人に接することができなかった」と述べており、平井敏晴は、17世紀に清が明を滅ぼすと、長崎出身の鄭成功は清に抵抗する拠点を築くために1662年に台南に入り、その後の台湾は、清に対する抵抗の拠点であり続けたため、台湾からすると、日本に割譲されることは、抵抗を続けてきた清からの開放でもあり、「台湾はもともと清への対抗意識があり、日本統治はある意味、台湾にとって渡りに船でもあった。一方、韓国は王朝を断絶させられたことで、日本への反発が生じやすかった。そのうえ、朝鮮統治は日本にとって経済的にうまくいっていなかった」「朝鮮王朝を潰した日本への反発心が何らかの形で韓国社会に根を張っている」「1897年に朝鮮は国王を皇帝に代え、大韓帝国が成立し、日韓併合の1910年まで存在した。韓国は正式な国名が大韓民国であることからもわかるとおり、大韓帝国と無縁ではない」「現在の韓国には大韓帝国が重ね合わせられ、さらにそこから直接遡れる朝鮮王朝500年の歴史を自ずと回想することになる」「そんな思考体系によって、近代日本と朝鮮王朝は対立関係に置かれてしまう。当時の日本の仕業に反対・反発することは、現在の大韓民国においても正しく称賛されるべき行いであり、そうしなければ罰せられる対象になる。日本で冷淡とも言われる親日派への処遇である」「台湾には王朝がなかったので、そこを統治して開拓を進めた日本は、後に朝鮮で経験するような王政復古のイデオロギーによる軋轢を経験せずにすんだ」と結論付けている[77][78][79][80]。
資本主義萌芽論
日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、資本主義の萌芽は李氏朝鮮の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする資本主義萌芽論が、1950年代に北朝鮮で唱えられた。これはのち1960年代から1970年代に日本に紹介され、1980年代には韓国へ日本を経由して伝わった。しかし、その後の実証的研究の進展により、韓国においても、資本主義萌芽論について否定的な見解が優勢になっている[81]。
近年、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し、李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済が急速に崩壊したことを主張し、資本主義萌芽論を強く否定しており、「幻想」と評している[82]。また、ハーバード大学のカーター・J・エッカートは、資本主義萌芽論を「論理ではなく日本国を弾劾することが目的」「韓国人が彼らの歴史の中で、産業革命の種子(資本主義萌芽)を捜そうと努力することは、オレンジの木からリンゴを求めるようなものだ[82]」とし、韓国の資本主義は日本の植民地化の中で生まれ、戦後の韓国の資本主義や工業化も、日本の近代化政策を模したものであるとした[83]。またエッカートは、日本による統治そのものについて朴正煕政権との類似性などを挙げ、軍事政権の一形態であり、韓国の資本家に独裁政権への依存体質をもたらす原因になったとも述べている[83]。
これに対しカリフォルニア大学のステファン・ハガードは、エッカートの議論は具体例に欠しいと批判した[84]。しかしハガードの研究においても、戦後の韓国の経済成長は日本統治期から引き継いだ金融システムと権威主義的国家構造による効率的な外資利用によるものだとしており、韓国の内在的発展性の重要性を弱めていると主張する韓国人もいる[85]。
注釈
- ^ 今日の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に相当する地域。旧韓国、朝鮮国(李氏朝鮮)領域。間島については一部に領有権について主張がある。
- ^ 全体の構図から「漁夫の利」などと称されて紹介されることも多い。
- ^ 日韓議定書 第四条「第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ。而シテ大韓帝 国政府ハ右大日本帝国ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事」
- ^ 「日省録」や「承政院日記」などの分析から高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする研究結果も、2001年(平成13年)にハーバード大学アジアセンター主催で開かれた国際学術会議で出されている[44][45][46]。
- ^ a b 「ハーグ密使事件は皇帝の責任に属す ことはもちろんだが、統監府が未然に防止できなかったことは統監の迂闊を世界に公表したものである。しかも、これは統監一人の身にとどまらず、日本の名誉毀損・威厳の侮辱・信用の抹殺である」(大阪毎日新聞 1907年7月16日の社説)[39]
- ^ 火田民も参照。
- ^ 李氏朝鮮時代も土地売買は可能であり経国大典(1460年)や続大典(1744年)で届出制を規定していたが、これら官許方式は衰退し民間同士での私的売買が横行しており公証機能が衰退していた。『最新韓国実業指針』岩永重華(宝文館、明治37年)や雑誌『韓半島』第2年2号(明治35年)などは朝鮮末期の不動産売買や制度の混乱について記録している。
- ^ 後述。高麗大学名誉教授・政治学者韓昇助の事例など。
- ^ 名誉毀損及び外患煽動の容疑で逮捕されたり、国会傍聴中や裁判において暴行される(暴行犯の朴琦緖は英雄とされ逮捕もされていない)などの被害に遭っており、身の安全のため住所すら公表していない。
- ^ 金星出版社の教科書を批判して2008年に出版された教科書フォーラム編集の教科書。
- ^ 崔文衡は2010年夏に刊行した『韓国近代の世界史的理解』(知識産業社)でも、「世界史のなかの韓国史」を提唱している。
出典
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- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、443頁 。"七月二十三日午前政変後戚臣以下多く逃亡して、景福宮は国王及び少数の宗臣・近臣を残留して、殆ど空虚に帰したが……既に日本国公使が兵力によって戚族を廟堂より駆逐し、大院君を首脳とした新政権を樹立した以上、国王・王妃の好む好まぬに関せず、廟堂を改造し、内政改革に着手せざるを得ない。"。
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- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、445頁 。"杉村書記官は大院君が既に古稀の齢に達し、時勢に通ぜず、徒らに私見を主張して、政務を渋滞せしめるのを見て、早くも金弘集を以て之に代へようとし、其領議政任命を要した。大院君も之に従ひ、七月二十五日領議政金炳始の辞職を待ち、金弘集を後任とした。"。
- ^ 田保橋潔『近代日鮮関係の研究(下巻)』朝鮮総督府中枢院、1940年、447-449頁。"大鳥公使は七月二十三日政変が一段落告げると共に、清韓宗属関係の廃棄に注意し、七月二十五日景福宮に於て、大院君及び督弁趙督弁趙秉稷に会見し、明治二十七年七月二十日最後通牒の趣旨に従ひ、中朝商民水陸貿易章程の廃棄を宣言し、並に朝鮮国駐留清国軍の駆逐を請求する件について協議した。然るに大院君、趙秉稷共に将来清より報復懲戒を加へられることを恐怖して、躊躇決することが出来ない。最後に大鳥公使の強硬な要求に屈して承諾し、同日清代理交渉通商事宜唐紹儀に清韓通商三章程破棄を通告したが、清兵駆逐に関する大鳥公使宛照会は頗る不満足のものであった……朝鮮国内駐留清国軍の駆逐については、統理衙門照会の内容が頗る不満足なため、大鳥公使より修正を要求したが、督弁は容易に同意を与へない。けれども形式的には朝鮮国政府が日本国公使に清兵駆逐を依頼したと見るも支障がないので、大鳥公使は七月二十六日混成旅団長大島陸軍少将に左の如く通告した。 在牙山清兵ヲ撤回セシムル儀に付キ、昨二十五日朝鮮政府ヨリ、外務督弁ノ記名調印ヲ以テ、右取計方代弁ノ依頼有之候間、御承知ノ上、可然御取計相成度此段申進候也。明治二十七年七月二十六日 特命全権公使大鳥圭介 大島陸軍少将は既に前日二十五日混成旅団の主力を率ゐて南下の途に就き、又仁川水道豊島沖に於ては、日清両国艦隊既に戦闘を開始したので、此照会の修正は問題外となったのである。"。
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- ^ 中央日報 2014年08月13日10時22分 【コラム】「複合骨折」の韓日関係(1)
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」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ “韓日キリスト教会が共同声明、歴史清算訴え” (日本語). 聯合ニュース (聯合ニュース). (2010年8月13日) 2010年8月13日閲覧。
- ^ 2015年日韓歴史問題に関して日本の知識人は声明する
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