忠臣蔵 歌舞伎・講談以外の創作物と受容史

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忠臣蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 00:53 UTC 版)

歌舞伎・講談以外の創作物と受容史

江戸時代

正徳元年(1711年)には『忠義武道播磨石』(『武道忠義太平記』とも)という実録風の読本が出ており、赤穂事件を鎌倉期の出来事に仮託して描いている[237]。 そして享保2年にはこれを模倣した『近士忠義太平記大全』がでている[237]。 これらは『鬼鹿毛無佐志鐙』から『仮名手本忠臣蔵』までの人形浄瑠璃や歌舞伎に影響を与えているであろう[237]

さらに時代が下ると、安政8年の『案内手本通人蔵』のような『仮名手本忠臣蔵』を前提とした洒落を効かせた本も登場する[237]。 また寛政11年には忠臣蔵を水滸伝に当てはめた山東京伝の黄表紙読本『忠臣水滸伝』が描かれた。京伝には義士の前世が泥棒や猫だったとする『忠臣蔵前世幕無』、四十七人の料理人が炭小屋の殿を美味い料理でもてなす『忠臣蔵即席料理』、天野屋ならぬ高麗屋が登場する『座敷芸忠臣蔵』といったパロディ作品もある[237][238]

天保の頃から開港時期にかけて「義士研究」がさかんになり、特に開国直前の嘉永4、5年には、赤穂事件関連の史料を数十年がかりで集めた『赤穂義人纂書』が登場している[239]。 19世紀中葉は「義士伝集成時代」ともいうべき義士ブームの時代で[239]、天保7年には四十七士の銘々伝が書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』[54]が登場し、安政期には山崎美成が銘々伝的な逸話を集めた『赤穂義士一夕話(いっせきわ)』や『赤穂義士随筆』を書いている[237]。この時期には全国各地の義士の遺跡に記念碑が続々と建てられ[239]、忠臣蔵の芝居も続々と作られた[239]。弘化・嘉永の頃には一勇斎国芳の武者絵『誠忠義士伝』が出て江戸中で大評判になった[239]

天保の頃には泉岳寺に詣でる客も多く、泉岳寺の近くには『仮名手本忠臣蔵』にちなんだ名前がそこかしこにあり、たとえば一力茶屋、大星力弥、天河屋義平にちなんだ「一力」ののれん、「力弥豆」、「天川白酒」などがあったという[240]

嘉永元年には泉岳寺で開帳があり、義士ブームの頂点に達した[239]。これにあわせ一陽斎豊国の芝居絵『誠忠大星一代噺』が描かれている[239]。 泉岳寺の開帳の際には奉納者を募り義士の木像が作られた。奉納者には一般の町人や武士のほか、講釈師や芝居関係者、やくざの親分や首切り浅右衛門などがいたという[239]

しかしこの木像を無料で拝観させようとしたところ、幕府から差し止められた[239]。 忠義ものであっても罪人である赤穂浪士たちの木像を公開して騒ぎ立てるのはよくないというのが理由であった[239]。 幕府は最後まで赤穂浪士を罪人として扱い続けたのである[239]

宮澤(2001)によれば、幕末に安政の大獄が起こると、水戸藩の浪士たちは赤穂事件を研究し、桜田門外の変に生かしたという[241]。一方、桜田十八士の一人、海後宗親の遺稿である襲撃の一部始終を伝える『春雪偉談』や『潜居中覚書』にはまったく赤穂事件に関する記述がない[242][要非一次資料]

明治維新の批判

宮澤誠一によると、明治以降の忠臣蔵物の特徴として、欧化主義の時代には「義士」としての四十七士像は批判され、国粋主義・日本回帰の時代には「義士」は賛美される傾向にあるという[243]

明治元年11月5日には、明治天皇が泉岳寺の大石らの墓に対して、勅使を遣わし、勅旨を述べ、金幣を届けさせた[244]。 松島栄一によれば、この件は四十七士が義士であるという論功行賞になったという[244]。 この件は四十七士の義士像を天皇の公認のものとし、それはそのまま明治政府公認の立場ととらえられ、義士を賛美・称揚する人に利用されることになる[244]。 そして同時に、君主・浅野内匠頭に対する義士の忠誠が、天皇や国家に対する忠誠にすり替えられる原因ともなった[244]

一方、文明開化の影響による封建思想への批判もあり、たとえば福沢諭吉は『学問のすゝめ』で「義士」を批判している[243]。福沢によれば内匠頭にしろ四十七士にしろ、刃傷や仇討ちに及ぶのではなく時の政府である江戸幕府に訴えを起こすべきだったとしている[245]

歴史学の立場からは明治22年に重野安繹の『赤穂義士実話』が登場し、ここにはじめて、赤穂事件は近代歴史学の俎上にのった[244]。重野は文献実証主義の立場から、『江赤見聞記』など数十点に及ぶ出典に基づいて芝居などの「忠臣蔵」における虚説を排したが、人々が慣れ親しんできた忠臣蔵のイメージを損ねたので重野は世間の憤激を買った[246]

その後、信夫恕軒により、赤穂事件を講談のように面白く物語る『赤穂義士実談』が出ている[244]。『赤穂誠忠録』には吉良家の忠臣や、義周以降の吉良氏の活躍(七代家継の治世)についても記されている[247]

総じて、忠臣蔵にとって明治時代は不遇の時代であったとされ、泉岳寺も荒廃の時期だったと回想している[248]。同様に大石神社も、創建が許可されたのは1900年(明治33年)になってからであり、建築の募金も集まらず難航[249]、神社完成は大正を待たねばならなかった。

日露戦争から大正時代

日露戦争後の忠臣蔵ブーム

日露戦争後、国家主義思潮の高揚にともない、明治維新後最初の忠臣蔵ブームが起こる[250]。その起爆剤になったのが、桃中軒雲右衛門の浪花節と近代の忠臣蔵物の原点[250]となる福本日南の『元禄快挙録』であり[250]、それらの背後には国家主義的な政治結社玄洋社の後援があった。

浪曲師桃中軒雲右衛門玄洋社の後援で「義士伝」を完成させ、武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座や東京本郷座で大入りをとっている。 雲右衛門の義士伝はレコードという新しいメディアを利用することで爆発的な人気を呼んだ[251]。 また浪曲師二代目吉田奈良丸も『大和桜義士の面影』で大高源吾と宝井其角の出会いを歌って大ヒットを呼び、「奈良丸づくし」と称して演歌にまでなった[251]。このことが大高源吾の笹売り伝説の普及に一役買った[252]

1909年(明治42年)には、玄洋社系の新聞九州日報の主筆兼社長である国粋主義者[253]福本日南著『元禄快挙録』のような、「義士」の犠牲精神を強調し、国民統合を目指した言説が登場し[243]、洛陽の紙価を高めるような評判をとった[244]。 この本によって戦前の近代日本における忠臣蔵の見解が示されたといっても過言ではない。これは時を同じくして国民道徳としての武士道が高揚されたことと無関係ではない。[244]

活動写真もこの頃「忠臣蔵」を普及させたメディアの一つで、最初の忠臣蔵映画は、1907年に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の五段目を撮影したものである[254]

またこのころの忠臣蔵映画の代表作の一つに、1912年(明治45年/大正元年)の横田商会による牧野省三監督作品『実物応用活動写真忠臣蔵』全47場があり、主人公の尾上松之助が大石内蔵助、清水一学、浅野内匠頭の三役を演じている[254]。この映画はその2年前に作成された松之助最初の全通し42場の『忠臣蔵』をもとにしたて村上喜剣の話などを付け加えたもので[254]、「実物応用」というのは活動写真の合間に俳優が実演する映画のことである[254]。この頃の忠臣蔵映画では、浪花節が口演されたりレコードで流されたりすることがあった[254]

この後も忠臣蔵映画は作られ続け、御園京平の調査によれば、明治期から昭和戦中までに作られた忠臣蔵映画は、分かっているだけでも114本に及ぶ[255]

大正デモクラシー

大正デモクラシーのころには忠臣蔵もその影響を受け、忠義よりも人間的の自然な感情や抵抗の精神を重視した研究も生まれてくる[256]。 1913年(大正2年)に刊行した司馬僧正の『拙者は大石内蔵助ぢや』とその続編『赤裸々の大石良雄』は、忠臣蔵に自然的な手法を持ち込み、英雄大石内蔵助といえど内面は凡人と変わらぬ事を説こうとしたが、それは伝統的な儒教道徳の禁欲倫理の裏返しに過ぎないなどの限界があり、近代的自我に目覚めつつある当時の知識人の期待に応えるものではなかった[257]

1917年(大正6年)には吉良低討ち入り後に細川屋敷に預けられた大石内蔵助の内面に初めて近代文学の光を当てた芥川龍之介の短編『或日の大石内蔵助』が登場している。同時に当該作では、不義士たちも俎上にあげられ非難されている。

大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム

映画『忠魂義烈 実録忠臣蔵』(1928年)の広告。尾上松之助と袂を分かったマキノ省三監督が新派の俳優伊井蓉峰を主演・大石内蔵助にして撮ったもの

大正デモクラシーの衰退期には明治維新後第二の忠臣蔵ブームが起こり、1916年(大正5年)に福本日南が中心となって設立した中央義士会がの活発な活動や、忠臣蔵の講談や浪花節がラジオで活発に放送された[258]

1921年(大正10年)には朝鮮でも忠臣蔵の芝居が上演され、パンソリと呼ばれる伝統芸能にも取り入れられている(『京城日報』)[259]

戦前昭和

昭和初期の好景気

しかし1920年代には同時に、忠君愛国的な「義士」像に対する批判や、人間的政治的視点を盛り込んだ小説も登場している[258]

1926年(大正15年/昭和元年)、野上弥生子は『大石良雄』において、そのときどきの感情に突き動かされ、最終的に復讐を義務・責任と感じる内蔵助像を描くことで内蔵助の偶像化を否定した[260]。これは近代的精神が抑圧され挫折させられた大正末期の知識人の屈折した内面を表現したものであろう[260]

また1927年から新聞連載された大佛次郎の『赤穂浪士』は昭和の金融恐慌にはじまる社会不安を背景として書かれ、腐敗した封建的な官僚主義政治に対抗する大石内蔵助像(作中で「悪人」と表現した箇所がある)や、吉良方の猫兵部(千坂高房)と堀田隼人を描いてベストセラーになった[261]1930年(昭和5年)には森田草平の『吉良家の人々』が発表されている[262]

1920年代は、ほぼ毎年のように各映画会社が忠臣蔵を題材にした映画を製作した。 1927年(昭和2年)に至っては松竹帝国キネママキノ・プロダクションの三社が製作に当たっている[263](ただしマキノ・プロによる『忠魂義烈 実録忠臣蔵』は翌年に不完全な形で公開)。

金融恐慌から満州事変以降

1932年(昭和7年)に発生した五・一五事件の首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、泉岳寺に集結するなど「忠臣蔵」をも意識した行動をとっていた[264]。また彼らに対する論告求刑文においても、山本検察官が赤穂事件に対する荻生徂徠の論説を引き、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になる旨を述べた[264]

左翼の間で忠臣蔵が流行し、共産党が支援する農民運動に加わった田村栄太郎が、1934年(昭和9年)に『忠臣蔵物語』を刊行した。マルクス主義の観点で羽仁五郎が論文『大石良雄の場合』を掲げ、反ファシズムの論客として知られる長谷川如是閑は『唯物史観赤穂義士』で討ち入りを義士の貧窮と就職問題として論じた[265]

1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では首謀者たちが忠臣蔵を想起したと思われる言動は見られないが、岡田啓介首相の生存が報道されると、吉良上野介のように炭小屋に隠れていたのではないかというデマが流れた[266]

1932年、1937年、1940年には、それぞれ宝塚少女歌劇団が忠臣蔵を上演している。この他、大阪松竹歌劇団でも日舞レビューの場面として用いた。

日中戦争前後の忠臣蔵ブーム

昭和10年代前半の日中戦争前後の頃の日本回帰に伴い、第三の忠臣蔵ブームが起こる[267]。 この頃の忠臣蔵の特色は、天皇制の問題が色濃く反映していることである[267]。たとえば真山青果の『元禄忠臣蔵』は、大石が皇室に対して絶対的な尊崇をしており、「元禄時代の人間がこのような発想をするわけがない。時局に迎合して故意に話を皇室に結び付けたのだ」と本作発表当時から批判された[268]。真山は識者や大衆の批判に遂に屈し、「戦争が終わったら書き直したい」と娘に語ったという[269]

吉川英治の『新編忠臣蔵』においても、多門伝八郎が元禄の華美な生活は「永遠の皇国」に「亡国の禍根」を残すのではないかと嘆くなど、皇室制度を意識して書かれている[270]

日中戦争がはじまって1年経つと、中国大陸で戦っている将兵のために中央義士会は『元禄義挙の教訓』を出版し、国家総力戦になった現在、義士精神は全ての国民が見習うべき道徳的規範だと主張している[271]。そして義士の犠牲的精神を強調し、赤穂事件が忠孝一致の日本精神を体現するものだという論説を展開した[271]

太平洋戦争と軍部当局の批判

1941年(昭和16年)12月、日本が米英と開戦する(当時大東亜戦争、現太平洋戦争)と、さらに中央義士会は義士精神を米英打倒の精神の模範とすべきとする論を張る[272]

だが軍部当局の方は、赤穂浪士の討ち入りは一封建的領主に対する忠義すなわち「小義」であり、日本古来の皇室に対する忠義である「大義」とは異なるものであるうえに、何よりも内匠頭が勅使饗応を放棄して不敬なので、これを推奨するのは好ましくないという意見が強く、国定歴史教科書でも赤穂事件の記述は縮小もしくは割愛される[273][272]

太平洋戦争末期になると、軍部もこのような小義と大義の区別にこだわっていられず、国民講談振興会の強い要請を受け、「定本国民講談」の刊行を許可している。そこでは義士達の仇討ちを米英に対する「国民的仇討ち」に転化して天皇国家への絶対的忠誠に結び付けている[274]

占領下の規制

第二次世界大戦における日本の敗戦により、忠臣蔵の位置づけも戦中とは大きく変化する。

下村定陸軍大臣は「陸軍軍人軍属に告ぐ」という放送で、大石内蔵助の赤穂城明け渡しの立派さを例に挙げて天皇の命令に従っておとなしく武器を捨てるように言い、石原莞爾陸軍中将も毎日新聞でやはり大石を例にして同様のことを述べている[275]

戦後米軍が日本を占領すると、GHQの下部組織CIEが日本の映画会社各社に推奨すべき映画と作成を禁止すべき映画の指針を通達し、禁止事項の中には「仇討ちに関するもの」と「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という項目があり、これにより忠臣蔵映画の上演は不可能になった[276]

フォービアン・バワーズによれば、1943年(昭和18年)11月には雑誌『LIFE』に忠臣蔵から日本人の「血に飢えた」メンタリティを分析する論考が載っており、GHQの上層部はこれを読んで前述した禁止事項を入れたのかもしれないとしている[277]。もしそうだとすれば、GHQは忠臣蔵を狙い撃ちして禁止したことになる。

実際占領期間中には、中山安兵衛(堀部安兵衛)を人の命を奪うことのむなしさに悩む男として描いた[278]『「高田馬場」より 中山安兵衛』(1951年3月公開)を唯一の例外として、本伝はもちろん外伝ものすら忠臣蔵映画の上演は許可されていない[277](なお『忠臣蔵余聞 四十八人目の男』の再演も、正確な上映期間が分からないものの、占領下の1951年4月に行われた可能性がある[279])。

ただし1949年の映画『青い山脈』は共産党主導の労働組合の影響下にあった東宝が忠臣蔵を換骨奪胎して作り上げたものだとこの映画のプロデューサーの藤本真澄が証言しており[280]、また、左翼運動の経験者で脚本を担当した今井正も「青い山脈は忠臣蔵の第十二段」と位置付けている[281]。その意味ではこれを占領期間中に作られた数少ない忠臣蔵映画とみなすこともできる。

戦後の人気と1970年代の衰退

1952年(昭和27年)4月に日本が主権を回復すると、毛利小平太、小山田庄左衛門、寺坂吉右衛門ら脱落者を描いた『元禄水滸伝』を皮切りに、同年だけで7本もの忠臣蔵映画が作られている[282]

この頃の忠臣蔵映画は、まだGHQに対する遠慮があったのか、どれもアンチ仇討ち、アンチ忠臣蔵というスタンスで描かれていた[282]。前掲の宝塚映画製作所『元禄水滸伝』では、瑤泉院が事件後に「少しもかっこいいことではないので、ほかで討ち入りを吹聴するな」と寺坂に釘をさす場面がある。

だが、1954年の『赤穗義士』(大映)と同年の『忠臣藏(花の巻・雪の巻)』(松竹)から戦後忠臣蔵映画の黄金期に突入し[282]、その後1962年まで、毎年数本もの忠臣蔵映画が作られ続けている[282]。当時の忠臣蔵映画は、自社の巨匠監督を使って豪華な俳優をオールスターで使った大作が多く、いわば俳優の顔見せ的な役割を担っていた[283]。1956年の『赤穂浪士(天の巻・地の巻)』(東映五周年記念作品)では、当時の時代劇スターである月形龍之介が吉良上野介に扮しており、クレジットは市川右太衛門(大石内蔵助)より先になっている。

一方小説は1950年(昭和25年)の榊原潤の『生きていた吉良上野介』を皮切りに、村上元三の『新本忠臣蔵』(1951年/昭和26年)、大佛次郎の『四十八人目の男』など友情や恋、自立などを描いた忠臣蔵ものが発表され[283]、その後も舟橋聖一の『新・忠臣蔵』(1956年~)、山田風太郎の『妖説忠臣蔵』(1957年/昭和32年)[284]五味康祐の外伝物『薄桜記』(1959年)、尾崎士郎の『吉良の男』(1961年/昭和36年)など続々と忠臣蔵ものが書かれている[283]。風太郎には上杉家の能登忍者たちが大野・田中・奥野・小山・進藤と赤穂義士を一人ずつ倒していく『忍法忠臣蔵』や義央が生き残る『生きている上野介』など、一連の反忠臣蔵ものがあり映像化もされている[285]

東京五輪開催年である1964年(昭和39年)になるとNHK大河ドラマ赤穂浪士』(ただし、原作や映画化での主人公は吉良・上杉方の堀田隼人と千坂兵部[286]。大河では大石内蔵助を主役に換えている)[287][288][289]が最高視聴率53.0%に達する[290]など国民的にヒットし、忠臣蔵の主力が映画からテレビへと移る[291]。その後は年末になると毎年のようにテレビで忠臣蔵ものの新作の放映もしくは再放送が行われるようになった。

高度成長末期から1970年代には娯楽の多様化もあり、いったん人気が衰退する。一本も忠臣蔵の映画が作られない年が続いた。 小林秀雄においては『考えるヒント』で「尾形光琳や俵屋宗達が日本文化の典型として尊重され、「忠臣蔵」などは一笑に付す傾向は気に食わぬ」と反発した[292]

一方で、1971年(昭和46年)にはドナルド・キーンが忠臣蔵を『Chushingura:The Treasury of Loyal Retainers, a Puppet Play』として翻訳した。同著でキーンは、日本庭園や富士山に代表される「わび」や「奥床しさ」「水に流す潔さ」といった日本人の精神や日本文化とは逆の、「fanatic」な「bloodshed」が見られる「imaginary story」として紹介している[293]

80年代の多視点化とバブル時代の斜陽

1980年代になると再び忠臣蔵の関心が高まり、1982年にはNHK大河ドラマ『峠の群像』が作られ、また森村誠一が浪士たちの人間的な側面を強調した『忠臣蔵』を描き、ブームの一翼を担った。森村には、吉良が昵懇だった隣の本多邸に逃れ天寿を全う、高田ら第二陣の討ち入りも本多邸前で全滅する『真説忠臣蔵』、央を守る武(義士)と広島・米沢の改易を狙う柳沢を描く『吉良忠臣蔵』もある[294]

80年代末から90年代にかけ、アンチ・ヒーロー的な忠臣蔵ものが作られており、井上ひさし小林信彦もそれぞれ脱落者を描いた『不忠臣蔵』、赤穂事件の不条理な面を浮き彫りにした『裏表忠臣蔵』を書いている[294]八木康夫のTBSドラマ『忠臣蔵』でも再仕官のため吉良を打ち取り名を上げたい四十七士と、彼らに流されるままに討ち入りに参加する小心・臆病な内蔵助(演:ビートたけし)が描かれた。

同時期に丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』で忠臣蔵を御霊信仰と結び付けた論考に端を発するいわゆる「忠臣蔵論争」が起り、諏訪春雄が『忠臣蔵の世界』、『聖と俗のドラマツルギー』で丸谷の説に反論するなどした[295][294]

バブル期の『キネマ旬報』には「いま忠臣蔵では映画館に客を呼べない」という記事が載っている[296]

平成のマルチメディア展開・令和の低迷

1990年(平成2年)、多摩美術大学荒川法勝は『異説忠臣蔵』を発表、吉良が昵懇の隣家屋敷に逃げ、京で鷹司家に庇護されているのを第二陣が狙う不死説を扱った。 1992年(平成4年)には池宮彰一郎による『四十七人の刺客』が登場する。本作では吉良暗殺の「刺客」としての赤穂浪士を描き、たとえば吉良による浅野のいじめはなく、赤穂浪士側の捏造したブラックプロパガンダとするなど、情報戦としての側面も描かれた。池宮は「赤穂義士は英雄視されず罪人として扱われた」と同作中で持論を述べている。1994年には同じく池宮彰一郎の『最後の忠臣蔵』が書かれ、討ち入り後の世界を舞台に寺坂吉右衛門や脱盟者などのその後を描いた。また、同年には宝塚歌劇団が『忠臣蔵〜花に散り雪に散り〜』(脚本:柴田侑宏)を上演し、世界初のミュージカル化を行った。

1997年(平成9年)、三枝成彰作曲のオペラ『忠臣蔵』では「赤穂義士の真の仇は浅野長矩」「吉良は長矩を救助しようとしていた」[297]「大石が吉良義央に謝罪」といった前代未聞の演出を挿入した。

1999年(平成11年)には『新・忠臣蔵』を原作としたNHK大河ドラマ『元禄繚乱』が放送された。当該作品では従来の悪役俳優でなく、石坂浩二・宅麻伸・滝沢秀明といった二枚目やアイドルに吉良三代を演じさせた。一方、1994年(平成6年)のTBS大型時代劇『大忠臣蔵』では女性的な池畑慎之介 (ピーター)が上杉綱憲に扮した。

2000年代以降は史実の研究が進んだことから従来の「仇討ち」を全面に打ち出した作品は少なくなり、様々な視点から描いた作品も登場するようになったが、忠臣蔵を題材にした映画・TVドラマ・小説の作品発表は全体的に減少傾向にあり、冬の風物詩としての姿を緩やかに消しつつある。架空戦記や歴史シミュレーションで知られる作家集団・霧島那智には『忍術忠臣蔵外伝』があり、歴史IFもの『忠臣蔵釣客伝』で長辻象平は、津軽家による救援で吉良の生存と赤穂義士の失敗を描く。 芦辺拓は『一月半遅れの忠臣蔵』で吉良遺臣が大石の預けられた細川邸に討ち入る架空後日談を、『笑う忠臣蔵』で鯨統一郎は、討ち入りの目的が吉良暗殺ではなく他(強盗)にあったとする仮説を描いている。

2009年(平成21年)、国際通信社からシミュレーションゲーム『討入忠臣蔵 ~元禄太平記~』が発売、吉良方と大石方で遊ぶ2人用の戦術級ボードゲームとなっている。升目はSLG特有のヘックスでなく正方形

2013年(平成25年)にはハリウッドで忠臣蔵を換骨奪胎したファンタジー映画『47RONIN』が公開されたが、雑誌『バラエティ』は、「忠臣蔵が日本でなじみ深いものであるにも拘わらず、興行は芳しくないものである」と評した[298]

また、毎年恒例だったテレビでの年末時代劇長時間時代劇をはじめとする「忠臣蔵」制作・放送は、令和の時代ではすっかり影を潜めている。2019年(令和元年)の『決算!忠臣蔵』は赤穂義士がコミカルな三枚目(人気お笑い芸人を登用)で滑稽な演出がなされている。

2021年(令和3年)には宝塚歌劇団により、忠臣蔵をモチーフとしつつ大胆な翻案を行ったミュージカル『元禄バロックロック』(作・演出:谷貴矢)が上演された。同年、斜陽となった浪曲の復権を試みる玉川太福は、新作浪曲『サカナ手本忠臣蔵』で登場人物を魚介類になぞり、若年層への関心喚起の一助としている[299]


注釈

  1. ^ 東京都港区赤坂二丁目と六本木二丁目の間のあたり、氷川神社の南側を北東に下る坂[99]

出典

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  21. ^ 実際の脇坂への処分は、赤穂城にて在番していた脇坂重臣の左次兵衛が乱心して、同僚の貞右衛門を切り殺すという事件が起こったためである(『赤穂城在番日記』)。
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  296. ^ 『キネマ旬報』(No.1072、1991年)
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  299. ^ 「玉川太福 サカナ手本忠臣蔵」(江戸東京博物館、2021年3月13日)





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