ジョアン・ミロ
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ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるのが通例だが、ミロの描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いている。
生涯
ミロは1893年、スペイン、カタルーニャ地方の中心都市、バルセロナに生まれた。
ミロは1911年、18歳の時にうつ病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在した。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたようである。ミロはこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学した。1919年にはパリに出、この頃からモンロッチとパリを往復しつつ制作するようになる。パリではピカソら芸術家とも知り合い、またシュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンと出会う。
ミロの作風は同じシュルレアリストでもベルギーのルネ・マグリットやダリらの古典的・写実的描写法とは全く異なる自由奔放なものであるが、ブルトンはこうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして共鳴し、ミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなった。ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリではアメリカの作家のアーネスト・ヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流があった。
1930年代から、ミロはバルセロナ、パリ、マリョルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていった。1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、作品の規模も大きくなっていく。また、このアトリエでは絵画以外の分野の職人との共同制作を行い、陶器、壁画、彫刻などを次々と生み出した。晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を数多く残している。1966年来日。1969年[1]には日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日した。
ミロは1983年12月25日、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため90歳で死去した。
主な作品
- V・ヌビオラの肖像(絵画):1917年
- カタルーニャの農夫の頭:1924年-1925年
- 変身 (絵画):1935年-1936年
- メゾナイトの絵画:1936年
- 階段を昇る裸婦(絵画):1937年
- 古い靴のある静物(絵画):1937年
- 星座 (絵画):1940年-1941年
- バルセロナ・シリーズ(絵画):1942年-1944年
- 1968年5月 (絵画):1968年-1973年
- 航海士の希望(絵画):1968年-1973年
- 王太子殿下(彫刻):1974年
- 国王陛下(彫刻):1974年
- 女王陛下(彫刻):1974年
- 星座に向かって飛び立つ手(絵画):1974年
- アルルカンのカーニバル
- 1 ジョアン・ミロとは
- 2 ジョアン・ミロの概要
- 3 日本における作品の収蔵先
- 4 脚注
- ジョアン・ミロのページへのリンク