SMマニア誌の幕開け
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SMマニア専門誌の第1号は、1947年にカストリ雑誌として大阪で創刊された『奇譚クラブ』(曙書房→天星社→暁出版)である。創刊当初は単なる大衆向け娯楽誌であったが、1950年頃を境にカストリ雑誌ブーム自体が下火になり、さらには性交描写への厳しい取り締まりの影響もあって、ほとんどのカストリ雑誌は姿を消していった。そこで同誌は須磨利之の提案で1952年5・6月合併号から変態路線に転向する。転向の背景には、同性愛・SM・女斗美・切腹・屍体愛好といった変態性欲は「特殊な趣味」として官憲側に過小評価されていたという事情もあった。だが、エロを売り物にしている大衆雑誌でも「変態」に対しては客観的立場から嘲笑、あるいは差別・罵倒するニュアンスが含まれており、マニアからは大変不評であった。 『奇譚クラブ』が画期的だったのは、編集者自身がSMや変態性欲に造詣が深かったことにある。特に編集部に在籍していた須磨利之は、ライター・イラストレーター・編集者として1人3役をこなし、マニア向けSM専門誌のスタイルをほぼ1人で築き上げた。また須磨は「喜多玲子」という筆名で「責め絵」「縛り絵」も大量に手がけており、責め絵の第一人者である伊藤晴雨に才能をほれ込まれるほどの人気作家となった。須磨は自身の性的嗜好について次のように語っている。「ぼくは女色男色すべて好き。正常異常みんな好き。人が人を好きになってセックスを楽しむことみんな好き。ぼくが体験していないのは、レズのセックスだけだ。ぼくは男だから、彼女たちの心はわかっても、あれだけは経験できない。あとは何でもやってるよ」。須磨と交流があった濡木痴夢男は、喜多玲子の登場を「アブノーマル雑誌における驚嘆すべき出来事だった」と語っている。 その後、須磨利之は『奇譚クラブ』から『裏窓』(久保書店)へ移籍し、1970年代以降は『S&Mコレクター』(サン出版)に緊縛師や責め絵師として携わるなど、名実ともに戦後SM文化の立役者となった。『裏窓』2代目編集長の濡木痴夢男は「日本にただ一人、あるいは世界に一人の存在」「須磨のように異常性欲に関して万感の理解力と、表現能力をもつ画家はめったにいるものでない」と評している。 須磨の敷いた「誤解なし」「手抜きなし」「曖昧さなし」という誠実な編集体制は、レベルの高い誌面を形成し、文化人からの注目も集めた。『奇譚クラブ』の愛読者には川端康成や三島由紀夫、澁澤龍彥、寺山修司らがいる。同誌は1953年頃までに10万部を突破し、東京では便乗誌『風俗草紙』が創刊され、性風俗誌は黄金時代を迎えた。 『奇譚クラブ』は須磨が去った後も、日本中の変態読者から小説の寄稿が相次いだ。また滝麗子や秋吉巒、四馬孝、中川彩子、古庄英生、畔亭数久などの優秀なSM画家が登場したこともあり、ハイレベルなアブノーマル路線は維持された。途中、発禁による影響でビジュアル面の大幅な縮小があったものの、沼正三の鬼畜SM小説『家畜人ヤプー』や団鬼六『花と蛇』など歴史上に残るSM文学を輩出し、発行人の急逝によって1975年に休刊するまで同誌は日本のSM文化を支え続けた。
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