SFアート
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SF作家の小松左京が『SFセミナー』において「日本のSFアートは『SFマガジン』の創刊から始まった」と語っている様に、SFアートという分野では、ぬえ設立の時点で既に真鍋博、武部本一郎、金森達といった先人の活躍があった。 ぬえの初期メンバーは1968年公開のSF映画『2001年宇宙の旅』でのあまりにも衝撃的なビジュアル革新の直撃を受けた世代であり、SF小説の挿絵にとどまらず、特にテレビアニメを始めとするビジュアルの仕事への進出を特徴としていた。 先の世代と異なりまずSFファンダムがあってそこから登場したよりマニアックな集団であり、当時の最新SF情報を活かして各方面でよろず屋的に仕事を開拓してゆき、時にはSFアートというよりも、そのSFアートがビジネス・商業作品として成り立つ様にするべく、まずSFという概念自体を一般大衆へと紹介し普及させる事が仕事という状況も見られた。 テレビアニメの演出では長浜忠夫監督らに重用され、ロボットの透視図解など作品世界を拡げる優れたアイデアを提供した。現在のロボットアニメやSF作品における数々のノウハウにも、ぬえが生み出したアイデアが原点になっているものが少なくない。現在の日本アニメ業界でも一大ジャンルとなっているロボットアニメの文化の一翼を自ら作り上げた存在として、この意味でのアニメ業界における功績は大きい。 しかし、その一方で、スタジオぬえはあくまでSF企画スタジオであり、アニメーション本編の実制作を担うプロダクションではなかったことから、ぬえ所属のデザイナーがテレビアニメや玩具の製作の現場の実情を把握していたとは到底言い難い一面も垣間見られ、初期の作品では、メカ類のデザインについても、制作サイドの現実に即したものではなく自らのSF理論や理想を優先させたデザインや、当時の制作現場の必要や理解能力を遥かに超える膨大な情報量を折り込む傾向が少なからず見られた。 アニメの制作現場ではその特徴を指して「ぬえメカ」と呼ばれ、デザインは秀逸で未来的であっても、設定が詳細に過ぎて線が多く、複雑かつ稠密で作画に時間を要する上、情報・設定が細かく詰め込まれ制作現場の裁量で加減できる部分が少なく、面倒この上ないとして、特に作画枚数がそのまま収入に直結する制作組織の末端アニメーターたちからは不評を買う存在であった。 また、立体化をする玩具メーカーの設計担当者からも、商品化への挑戦意欲は掻き立てられるデザインであるが、ぬえ側の要望をそのまま満たすとパーツが細かくなる事から、金型などの設計や組み立て作業が複雑になりコストダウンの障害になる上、小児向け玩具では重要な要素である可動性や耐久性、ひいては安全性の確保が難しいと、お世辞にも好評とは言い難かった。このため、ぬえスタッフのデザイン・発想・着眼点を秀逸なものと認めながらも、起用に二の足を踏む会社や監督は決して珍しくなかった。ぬえと繋がりが比較的深いはずの日本サンライズでさえ、『機動戦士ガンダム』では高千穂遥から最初のヒントを得た企画であるにもかかわらず、実際の作品制作に当たっては現場やスポンサーの要望で大河原邦男をメカニックデザインに起用するという状況が見られた。 この様な実制作の現場が持て余してしまうほどの稠密なデザインや設定は、実際のアニメ・玩具として製品が完成した時にはぬえスタッフの意向に反して大きくオミットされていたり、作りやすい方向へとアレンジされる事も珍しくなかった。これは細かい所まで探せば1980年代までのぬえが関連した作品のほとんどで見られ、特に顕著な例として『超合体魔術ロボ ギンガイザー』がある。また、ぬえのデザインでアニメを制作したプロダクション側でも、その後に続けてメカニックデザインとしてぬえを起用する所と起用しない所が比較的はっきりと分かれる傾向がある。 初期との比較において、現在のぬえ系デザイナーのデザインはアニメ・玩具製作サイドの現実に多少なりとも則したものになってきたとされる。
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