MK I 1959年-1967年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 05:05 UTC 版)
「ミニ (BMC)」の記事における「MK I 1959年-1967年」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} モーリス・ミニ・マイナー1959年製のライセンスナンバー 621 AOK は、ライン生産の第1号車を記念して一度も販売されることなくBMCやBLで保管され、現在はゲイドンのヘリテイジモーターセンターに収蔵されている。 ピックアップ干草を満載したオースチン・ミニ ピックアップ商用車のグリルはプレス抜きの一枚もので塗装仕上げと簡素 ミニは開発当初 ADO15(ADO はAustin Drawing/Design Officeを表す)というコードネームが与えられ、初の量産モデルはオースチン・セブン(しばしばSE7ENと表記される)及びモーリス・ミニ・マイナーの名でイギリス国内向けに発売された。「セブン」とは第二次世界大戦前に大成功を収めたオースチンの大衆車にあやかったもので、「マイナー」は「ミニ」とかけた洒落であるという。生産は元オースチン系の主力工場であるバーミンガムのロングブリッジ工場で行われた。1962年までには北米とフランスでもオースチン850、モーリス850の名前で発売された。 設計者イシゴニスの友人で、1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いたクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパーは、当時イギリス国内のサルーンカー選手権にトライアンフで参加していたが、ライバルであるロータス・カーズのマシンの次元の違うハンドリングに太刀打ちできずにいた。そんな折、イシゴニスにミニの試作車を見せられてその驚異的なハンドリングに注目し、何回かの実験とテスト走行の後、イシゴニスと共同で「機敏で経済的で、しかも安価な車」を作ることを決意した。その成果として、1962年にADO50こと「オースチン・ミニ・クーパー」と、「モーリス・ミニ・クーパー」が誕生した。 1964年にはハイエンドモデルのサスペンションを、内部にオリフィスと空洞を持つゴムスプリングから、前後輪でパイプで連通し不凍液を満たしたハイドロラスティック(Hydro=水とErastic=ゴムの合成語)システムに変更した。この新しいサスペンションは柔らかな乗り心地で「魔法の絨毯」とも喩えられていたが、重量と生産コストが嵩み、またピッチングの制御が難しくセッティングの幅も狭いという問題もあったため、Mk III 前期を最後に元のラバー・コーンサスペンションに戻された。 ミニは映画やミュージシャンなどを通じて1960年代の大衆文化の中にその存在を焼き付けた。ビートルズのメンバーや、イギリス女王であるエリザベス2世もミニのオーナーだった。イシゴニスは1960年に知己を通じた紹介で、ミニの納車のためエリザベス2世女王に直々に謁見、女王は助手席にイシゴニスを乗せて自らミニを試走させたという。 ミニ・クーパーは1964年、クーパーSでは1965年、1967年のラリー・モンテカルロで総合優勝している。補助灯のレギュレーション違反ということで失格となったものの、1966年にもゴール時の成績は優勝相当であった。また、当時のBMCワークス監督で後のイギリス・フォードでも活躍する事となるスチュワート・ターナーは、本格的なペースノートやレッキ、サービス計画等、ラリー界に近代的なチームオペレーションを持ち込んだ事でも知られるようになる。 1960年代のミニの売り上げは全モデルで好調であったが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかった。複雑な駆動システムが製造コストを嵩ませた一方、競合他社との競争に勝つために製造原価を割り込む価格で販売することを余儀なくされたためである。当時のイギリス市場で最大の強敵はイギリス・フォードで、「アングリア」「エスコート」など、BMC前輪駆動車よりも大きい3ボックススタイルのボディを持ち、当時では低コストな固定車軸の後輪駆動方式を用いたベーシックモデルを生産しており、レースフィールドと大衆車市場の双方でミニやその上級モデルに当たるADO16シリーズと競り合った。 1964年モーリス・ミニ クーパーS1965年ラリー・モンテカルロ優勝車AJB 44B AJB 44B リア
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