DSEの時代
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「PRIDE (格闘技イベント)」の記事における「DSEの時代」の解説
1999年1月20日に株式会社ドリームステージエンターテインメント(DSE)が発足し、実行委員会組織での運営に限界があったKRSに代わり、「PRIDE.5」から運営を担当することになった。社長にはKRSで調整役として活躍した森下直人が就任。株の過半数を持つオーナー社長だったという。2000年8月27日の「PRIDE.10」で、アントニオ猪木がエグゼクティブ・プロデューサーに、2003年1月8日に森下直人が死去した後任の社長に榊原信行常務取締役が、2003年4月には、高田延彦がPRIDE統括本部長に、それぞれ就任。公的な役職には就いていはいないものの、作家の百瀬博教もプロデューサー的な立場だったと言われる(百瀬の公式ウェブサイトでは、興行を「百瀬博教プロデュース」と明記していた)。なお、榊原体制発足時にテレビ制作会社イースト(現・イースト・エンタテインメント)とスカイパーフェクト・コミュニケーションズ(現・スカパーJSAT)の資本がDSEに入った。 K-1やUFCなどの他興行との協調路線を打ち出しており選手層の拡大が期待されたが、PRIDEがK-1からミルコ・クロコップを引き抜いたのをきっかけにK-1とは険悪な関係になり、日本の格闘技ブームの一つの頂点とも言える2003年12月31日の興行戦争以来、K-1との対立は決定的になり、猪木、百瀬は離反した。 2001年11月3日、「PRIDE.17」でヘビー級(93kg以上)とミドル級(93kg以下)の王座の新設に伴い王座決定戦が行われ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとヴァンダレイ・シウバがそれぞれ初代王者となった。 2003年ミドル級グランプリが2004年にはヘビー級グランプリが行われる。また2005年には再びミドル級グランプリが行われたほか、武士道においてウェルター級およびライト級のグランプリも開催された。 2004年12月31日、「PRIDE男祭り 2004 -SADAME-」において国際レスリング連盟(FILA)会長のラファエル・マルティニティと、日本レスリング協会会長の福田富昭がリング上より「FILAはアマチュアレスラーのプロ格闘技活動を公式に認め、今後協会よりオリンピックメダリストをはじめ、世界中の強豪レスラーをPRIDEに送りこむ」という内容の挨拶を行う。 2005年4月23日から『PRIDE GRANDPRIX 2005』を開催。12月31日には「PRIDE 男祭り 2005」を開催し49801人の集客に成功した。 2006年3月、ウェルター級及びライト級王座を設立し、ダン・ヘンダーソン、五味隆典を初代王者に認定する。4月、無差別級グランプリが開催される。その最中の2006年6月5日、フジテレビはDSEとの契約を全面解除したことで、地上波中継が出来なくなる。直後に開催された「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND」では、会場の照明やセット、煽りVTR、実況等において劣化がみられ、フジテレビの撤退が少なからず影響したといえる。「PRIDE 武士道 -其の十三-」では、煽りVTR制作にフジテレビを退社した佐藤大輔、ナレーターに立木文彦という体制が復活。しかし地上波撤退の影響で、DSEへの信用失墜によるスポンサーの撤退が相次ぎ、一気に資金繰りが悪化していった。10月にはアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにて初めての海外大会「PRIDE.32」を開催。翌年2月には「PRIDE.33」を再び同地で催して活路を求めたが、経営体力は限界に達していた。
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