Amiga vs. Atari ST
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:12 UTC 版)
「コモドール」の記事における「Amiga vs. Atari ST」の解説
1983年ごろ、かつてアタリでAtari 800のビデオチップの開発などに携わったジェイ・マイナーは、アタリからスピンアウトしてAmiga社という小さな会社を設立し、"Lorraine"のコードネームで呼ばれる新型ホームコンピュータの開発を行っていたが開発資金が底をつき、新たな出資者を捜していた。ジェイ・マイナーは以前勤めていたアタリに資金提供を求め、当時はワーナーの子会社となっていたアタリの出資の元で開発を続行することになった。その見返りとしてアタリはそのハードのチップを自社のゲーム機に1年間独占的に利用でき、さらに1年後にはそのハードをキーボードを追加した完全なコンピュータとして販売する権利も有する、という契約を結んでいた。「そのハード」とは言うまでもなく、後にAmigaとしてコモドールからリリースされることになるハードのことである。Atari MuseumはこのAtari社とAmiga社による契約書と、このAtari版Amigaが元々は"1850XLD"と呼ばれていたことがわかる技術文書を保管している。ちなみに当時アタリはディズニーと深い関係にあったため、アタリではこのハードのコードネームは "Mickey"、256KBのメモリ拡張ボードは "Minnie" とされていた。 その後、Amiga社は1984年春ごろにも資金難に陥り、さらなる出資者を捜し始めていた。そのころのアタリはすでにトラミエルとの買収話が進行しておりAmiga社を相手にしなかったため、Amiga社はコモドールとの話し合いに入った。話はコモドールがAmiga社を全て買い取るという方向でまとまり、コモドールは1984年8月にAmiga社を2500万ドル(現金1280万ドルと自社株55万株)で買収した。こうしてAmiga社はコモドールの子会社Commodore-Amiga, Incとなった。 コモドールはこの買収によってAmiga社の既存の契約(アタリとの契約も含む)が全て無効になると考えていた。しかしそううまくはいかなかった。アタリコープを創業してトラミエルが最初に行ったのは、アタリのもともとの従業員の大部分を解雇し、進行中の全プロジェクトをキャンセルすることだったが、同年7月末から8月初め頃に、トラミエルの部下が前年秋のアタリとAmiga社の契約書を発見。これを反撃のチャンスと見たトラミエルは、8月13日に「Amiga社とコモドールの契約は無効である」とコモドールを訴え返した。これもAmiga(およびコモドール)が似たようなテクノロジーを製品化することを妨害し、コモドールの企業買収(とそれによる次世代コンピュータの技術獲得)を無駄にさせることを意図したものである。 1985年初頭にはアタリコープが新ハードAtari 520STを約$800で発売。そして同年の秋、コモドールもAmiga社の開発した新型16ビットコンピュータをAmiga 1000としてUS $1295で市場に投入。Atari社の妨害のせいでAmigaのリリースがAtari STに半年ほど遅れを取る形とはなったが、両機は滞りなく販売され、共にホビーパソコンユーザーに熱狂的に受け入れられた。 1980年代後半、Atari STとAmigaは熾烈なシェア争いを繰り広げた。そもそもアタリとコモドールのシェア争いは、1982年発売のコモドール64が1979年発売のAtari 800に挑んだときから始まっており、双方に熱狂的なファンが付いたものだが、このAtari STとAmigaにも双方に熱狂的なファンがつき、「聖戦」 ("holy wars") と称する貶し合い(フレーミング)が繰り広げられた。 1987年発売のAmiga 500の大ヒットを見る限りでは、この聖戦はどうやらコモドール信者の方に分があった様子であるが、市場はMicrosoft Windowsを搭載したPC/AT互換機が制覇しつつあり、最終的には両者ともマイクロソフトに敗れ去った。一方、泥沼化した一連の訴訟合戦は最終的に法廷外和解として1987年に決着した。「ビジネスは戦争である」というトラミエルの経営戦術はまたしても成功を見たと言えなくもないが、結局この戦いに勝者はなく、その後のコモドールの運命をも決定付けた。
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