4期レノックス家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 03:12 UTC 版)
「リッチモンド公爵」の記事における「4期レノックス家」の解説
フランス王ルイ14世がイングランドの宮廷にスパイとして送り込んだ女官ルイーズ・ケルアイユ(1649-1734)はイングランド王チャールズ2世の御手付きとなり、その間に非嫡出子チャールズ・レノックス(1672-1723)を儲けた。このチャールズが1675年8月9日に3歳にしてリッチモンド公爵に叙されたのが現在まで続く4期目のリッチモンド公爵位の創設である。彼は直後の同年9月9日にスコットランド貴族爵位レノックス公爵位も与えられ、またチャールズの母ルイーズも1684年1月にフランス貴族爵位オウビーニュイ公爵(フランス語版)を与えられたので、レノックス家はリッチモンド公爵位、レノックス公爵位、オウビーニュイ公爵の3つの公爵位を継承する家柄となる。父チャールズ2世から寵愛を受けた初代公爵は経済面でも優遇され、タイン(Tyne)産出の石炭の出荷量に応じた終身賦課金を受ける権利を与えられ、将来までの財政基盤を確保した。役職面でも主馬頭(英語版)などを与えられていた。晩年にはウェスト・サセックス・グッドウッド(Goodwood)に屋敷(英語版)と所領を構えた。 2代公爵チャールズ(1701-1750)は襲爵前に陸軍軍人や庶民院議員を務めた。爵位継承後はジョージ1世とジョージ2世の侍従を務めた。また領地に動物園を創設したことでも知られる。 3代公爵チャールズ(1735-1806)は陸軍元帥まで昇進した軍人であるとともに貴族院議員として議会政治に積極的に参加し、王室費の無駄使いを追及したり、選挙法改正による選挙権の拡大や選挙権を18歳に引き下げる改革を熱心に訴えたが、こうした主張は当時は過激思想と看做されていたので「社会主義者」と呼ばれて政界で忌み嫌われたという。政界以外の活動では1801年にグッドウッド競馬場を創設している。 4代公爵チャールズ(1764-1819)も陸軍軍人として活躍しながらトーリー党の議員として議会で活躍した。1789年の摂政法改正問題の際には摂政の権限を制限すべきことを訴えて国王ジョージ3世の次男であるヨーク公フレデリックと対立を深めて決闘に及んでいる(両者とも大きな怪我はなかった)。その後、1818年に英国領北アメリカ(カナダ)総督になっているが、その翌年にセント・ローレンス川で狂犬病の狐にかまれて恐水病となり病死している。 5代公爵チャールズ(英語版)(1791-1860)も襲爵前には陸軍軍人を務め、爵位継承後にはホイッグ党の議員として政界で活躍し、1830年から1834年のホイッグ党政権で郵政長官(英語版)を務めている。また競馬では襲爵前の1812年にグッドウッドカップの創設を主導した。5代公爵の母シャーロットはゴードン公爵ゴードン家の出身であるが、1836年にゴードン公爵家が跡継ぎなく絶えた際に彼女が唯一の相続人となり、これによってゴードン家の財産はレノックス家によって受け継がれることになった。これを機にレノックス家はゴードン=レノックス家と改姓している。 6代公爵チャールズ(1818-1903)は保守党の貴族院院内総務を務め、枢密院議長等の閣僚職を歴任した。ヴィクトリア女王のお気に入りの貴族であり、1876年には祖母の実家の爵位ゴードン公爵位(連合王国貴族)を改めて与えられた。これによってゴードン=レノックス家はリッチモンド公爵位、レノックス公爵位、ゴードン公爵、オウビーニュイ公爵の4つの公爵位を持つ唯一の家柄となった。彼の代にはその所有地は28万エーカーにも及んでいたという。 7代公爵チャールズ(1845-1928)と8代公爵チャールズ(1870-1935)の相次ぐ死で相続税・財産税攻勢の直撃を被り、9代公爵フレデリック(1904-1989)は家計の立て直しに苦労した。この際にスコットランド・フォッシャバーズ(英語版)のゴードン城(英語版)やその周辺の土地、スコットランド・バンフシャーの土地などを売却している。地主業だけに頼る貴族的生活に見切りをつけて、グッドウッド地所会社を創設して家具製造・競馬場・住宅建設など幅広く事業を手掛けた。 10代公爵は、9代公爵の長男チャールズ(英語版)(1929-2017)である。現在の当主はその長男チャールズ(英語版)(1955-)であり、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードの創設者として知られる。
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