4期生の誕生――持丸の退会
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「楯の会」の記事における「4期生の誕生――持丸の退会」の解説
7月26日から8月23日まで、第4回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。この回を三島や持丸博と共に引率したのは森田必勝であった。小隊戦闘訓練を行なった20日の夜、営舎で関河真克(同志社大学)が横笛で『蘭陵王』を吹いた。 終了日の8月23日に御殿場の旅館で行われた慰労会では、この時にちょうど映画『富士山頂』の撮影で御殿場に来ていた石原裕次郎と渡哲也が招かれた。三島は2人が来る前に、「サインを求めたりしないこと。軍人として接するように」と会員たちに指示した。 この第4回体験入隊で、野田隆史、西尾俊一、倉田賢司の「十二社グループ(政治結社「祖国防衛隊」)」、佐原文東、椎木理の「尚史会」、田村司(神奈川大学)、向井敏純(神奈川大学)の生長の家系、井上豊夫(上智大学法学部)、関河真克などが4期生となった。これで楯の会会員は全80名となった。 しかしこの頃、楯の会の主要古参会員の中辻和彦、万代潔らと三島との間の齟齬が大きく表面化し、三島の意に反して、金銭感覚や女性関係がルーズだった中辻が財政難の『論争ジャーナル』の資金源を田中清玄に求めたことが決定的な亀裂となり、8月下旬に中辻、万代ら数名の1期生が楯の会を退会した。 楯の会の全員の旅費や滞在費、食費や雑費、制服代などの費用はすべて、三島が賄っていたが、田中清玄が「自分は三島と楯の会のパトロンである」と財界で吹聴していたことが三島の耳に入り、楯の会の名誉を重んじる三島の怒りを買った。三島はルーズな中辻に、「きみは雑誌なんかやめて、リュックサックを背負って田舎に帰れ」と面罵したという。 持丸はちょうどその頃、会の事務を手伝っていた恋人の松浦芳子との結婚を決め、2人揃っての正式報告を受けた三島もそれを喜び、大きな桜の花びらを浮ばせたお茶で驚かせ祝福していた。中辻と親しかった持丸は、三島と中辻のどちらの側に付くか迷ったあげく、『論争ジャーナル』の副編集長の活動と楯の会の活動の両方を辞めることに決めた。 三島は、全幅の信頼を置いていた司令塔の持丸だけは辞めさせる気は全くなく、彼が辞めるとも思っていなかったため、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と何度も説得して引き留めたが、帝国警備保障での役員の就職を決めていた持丸はそれを辞退した。 三島は、わが子に裏切られた父親のように落胆し、一時は楯の会の解散を口にするほどだった。持丸は外部から楯の会を手伝うということになり、三島はそれを渋々ながらも諒承したが、大事な右腕だった持丸を失った悲嘆と困惑は深く、山本1佐に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという。 9月14日、市ヶ谷会館で行われた9月例会で、新たな班編成がなされ、木曜日に班長会議を行うことになった。パレード行進練習も夏頃から朝霞基地で行っていた。10月上旬、三島は鎌倉の川端康成宅を訪問し、11月予定の楯の会一周年記念式典での祝辞挨拶を依頼するも断られ、意気消沈した。
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