2度目のロッテ監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:54 UTC 版)
「ボビー・バレンタイン」の記事における「2度目のロッテ監督時代」の解説
2003年オフ、低迷にあえぐロッテからのオファーを受けて9年ぶりに監督に復帰。背番号は2。背番号2は古巣ドジャースで、バレンタインが恩師と仰ぐラソーダがつけていた。2004年は北海道日本ハムファイターズとの熾烈な3位争い(プレーオフ進出権争い)を演じ、0.5ゲーム差の4位だったがチームを9年ぶりの勝率.500へ導いた。 2005年は相手先発投手に合わせ毎日スタメンを変える変幻自在の打線で勝ち続けた。 大胆な若手選手の先発起用、ほぼ全てのポジションに複数の選手を充て競争意識を高めつつ適度に休養を取らせる、里崎智也、橋本将の2人の捕手を先発投手に合わせ入れ替える(両選手ともに打撃も良く、スタメンマスクを外れても指名打者として出場することもあった)、クリーンナップを2組作って投入するなど独特の起用法が当たり、「ボビーマジック」と呼ばれた。特に目覚しい活躍を見せた西岡剛、今江敏晃らは「ボビーチルドレン」と呼ばれた。 84勝でシーズンを2位で終え、3位西武ライオンズと18.5ゲームの大差をつけてプレーオフ進出を決め、第1ステージで西武ライオンズを、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り、31年ぶりの優勝に貢献。史上初の日米で優勝経験を持つ監督となった。そして、日本シリーズでは阪神タイガースに3年ぶりと球団史上初の無傷のストレート4連勝(4タテ)。チームを31年ぶりの日本一に導き、自身は外国人初の日本シリーズ優勝監督となった。その際の優勝監督インタビューで、かつて対立した広岡達朗に対して「日本球界に招き入れてくれた恩人」と、感謝の言葉を贈っている。その後、11月10日から東京ドームで行われたアジアシリーズの初代王者に導いた。 2006年は一時首位争いを演じるものの最終的に4位と低迷。2007年はレギュラーシーズン2位につけ、その後のクライマックスシリーズでも第1ステージでソフトバンクに競り勝ち、第2ステージではリーグ優勝した北海道日本ハムファイターズ相手に2勝3敗と敗北したものの健闘した。 2008年は4位。2009年はシーズン前から「今年限りで退任」と取りざたされる中で指揮を執った。契約不更新となった理由は5億の高年俸がネックとなり、球団が約30億の大赤字を抱えたことによるものだった。一方、9月11日の北海道日本ハムファイターズ戦にて、日米通算1600勝を達成。これは日本球界なら4番目に相当する記録であり、師とあおぐラソーダの記録を上回ったことを喜んだ。しかし、チーム防御率リーグ5位、チーム打率リーグ最下位と投打共に低迷し、この年優勝した日本ハムに6勝18敗と大きく負け越して、最終順位は5位となった。9月になって正式に監督退任を表明し、本拠地最終戦後のセレモニーでは日本語で最後の挨拶を行い、帰国した。自身の退任に関して、バレンタインは週刊朝日のインタビューで球団フロントを批判する発言を行ったが、当時球団代表だった瀬戸山隆三は、バレンタインとの確執を認めつつも、先述にあるような高額な年俸に加え、バレンタインの専属スタッフや彼が紹介した指導者たちの年俸も非常に高額であったことや、バレンタインが球団のゼネラルマネージャーを自負して主にチーム編成や選手獲得に関してフロントを無視した独断行為を繰り返すようになっていたことが契約不更新の原因であったと語り、これらの問題行為を懸念した当時の球団オーナー・重光武雄の意向で「これ以上の続投は球団経営に支障が出るリスクが高い」として契約不更新が決まったとしている。一時期この決定を巡って一部の球団ファンから試合中に瀬戸山などのフロント幹部への誹謗中傷が書かれた過激な横断幕やゲートフラッグを掲げられる事態に発展したが、瀬戸山は「バレンタイン本人が退任の決定に納得せず、メディアやファンを巻き込んで自分に理があることを主張してきた」ことが発端であったと述べている。監督退任後、米スポーツ専門テレビ局ESPNの野球解説者に転身した。
※この「2度目のロッテ監督時代」の解説は、「ボビー・バレンタイン」の解説の一部です。
「2度目のロッテ監督時代」を含む「ボビー・バレンタイン」の記事については、「ボビー・バレンタイン」の概要を参照ください。
- 2度目のロッテ監督時代のページへのリンク