2度の砲塔爆発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 09:31 UTC 版)
就役直後の1919年(大正8年)10月24日、房総沖で演習中第3砲塔の爆発事故を起こした。そればかりか1924年(大正13年)9月17日には第4砲塔弾薬庫で火災が発生している。1942年(昭和17年)5月5日午後4時伊予灘で日向、伊勢、扶桑、山城による演習中、第七斉射を行った際に第5砲塔の爆発事故を起こした。この筒内爆発事故については、その爆発の瞬間の映像が当時のニュースに現存している。見た目では、発砲煙の様子がややおかしい程度で、外見上の損傷が目立ったものではなかった。艦橋にいた艦長や砲術科も、5番砲塔から発射された主砲弾が50mほど先の海面に落ちた事に違和感を覚えつつ、異変に気付かなかった。直後、主砲発令所から5番砲塔火災発生の報告があり、直ちに火薬庫に注水して爆沈を免れるも、死者55名、重傷者8名(当初の報告では戦死51名、重傷11名。5月14日合同葬儀時は54名)を出した。原因は主砲弾装填後、尾栓が完全に閉じないうちに火管から電流が流れて装薬に点火、弾丸を前方へ飛ばすはずの圧力が砲塔内に逆流したためであった。火管から突然電流が流れることは、5番砲塔に特有の「癖」だったという。 多くの死傷者を出した日向は呉に戻り、損傷した第五砲塔を撤去。その跡に25ミリ3連装機銃を4基搭載し、また当時開発が進んでいた仮称二号電波探信儀二型(対水上22号電探)を試験的に搭載。設置は5月27日に完了し、一連の作業を指導した海軍技術研究所の二階堂中将等が戦艦大和の連合艦隊司令部に挨拶している。性能は良好で、宇垣纏連合艦隊参謀長は『三連装機銃四門の第五砲塔上の假装備と相俟つて、反つて現代化せるに非ずや』と感想を述べた。5月31日以降、日向はミッドウェー海戦の一環としてアリューシャン方面に進出した。この戦いで南雲機動部隊は主力空母4隻を喪失して壊滅、主力部隊は会敵することなく日本に帰還した。日向の電探は帰還途上の悪天候において艦隊の航路保持に役立ち、松田千秋艦長はレーダーの有効性を周囲に訴えている。 砲塔爆発2回、弾薬庫火災1回という危険極まりない事故を起こしながらも無事だったことは、戦艦河内や陸奥などの爆沈の例と照らし合わせると非常に幸運であったと言える。また、空母4隻を失うことになるミッドウェー海戦の時期に第五砲塔を事故で失ったことは、その後の日向と同型艦の伊勢の運命を大きく変えることになる。(詳細は伊勢型戦艦を参照。)
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