2度の転封、奥東江との出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 2度の転封、奥東江との出会いの意味・解説 

2度の転封、奥東江との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 09:31 UTC 版)

土井利益」の記事における「2度の転封、奥東江との出会い」の解説

延宝9年1681年2月25日志摩鳥羽7万石への転封命じられた。鳥羽治めている間、近江国蒲生郡小口村の奥清兵衛東江)の学徳が高いと聞き、礼を厚くして迎えたことが、後の唐津での藩政生きることになる。元禄4年1691年2月9日今度肥前唐津7万石転封される。 唐津藩長崎見廻役の義務があるなど、幕府治世の重要拠点位置づけられていた。利益東江学問をこれら政務士民教育生かそう考えた利益教育熱心で、江戸藩邸当時有名な儒者招いて家臣とともによく講義聞いていた。また儒者家臣加えて教えを受けることもしていたらしい東江老母を心配し辞職願い出たが、利益毎年母に会う期間を許す約束をして、引き留め成功した唐津での東江は、郡奉行長崎勤番などを勤め、その学問識見現実政策生かし善政布いた。よって領民尊敬並ならぬのだったらしい。利益信任厚く新参の身であった東江を、500石の家老格抜擢し嫡男実の養育もさせた。その後東江江戸藩邸詰めを命ぜられたが、母の病が重くなったので看病のため帰郷し母の死看取った。しかし唐津帰る前に自身病没してしまった。東江死の床江戸方角拝し涙して利益の恩を謝したという。後に東江学問唐津において「奥流の学」として確立した正徳3年1713年)閏5月25日死去享年64。跡は利実が継いだ

※この「2度の転封、奥東江との出会い」の解説は、「土井利益」の解説の一部です。
「2度の転封、奥東江との出会い」を含む「土井利益」の記事については、「土井利益」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「2度の転封、奥東江との出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「2度の転封、奥東江との出会い」の関連用語

1
18% |||||

2度の転封、奥東江との出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



2度の転封、奥東江との出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの土井利益 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS