2度の転封、奥東江との出会い
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「土井利益」の記事における「2度の転封、奥東江との出会い」の解説
延宝9年(1681年)2月25日、志摩鳥羽7万石への転封を命じられた。鳥羽を治めている間、近江国蒲生郡小口村の奥清兵衛(東江)の学徳が高いと聞き、礼を厚くして迎えたことが、後の唐津での藩政に生きることになる。元禄4年(1691年)2月9日、今度は肥前唐津7万石へ転封される。 唐津藩は長崎見廻役の義務があるなど、幕府治世の重要拠点と位置づけられていた。利益は東江の学問をこれら政務や士民教育に生かそうと考えた。利益は教育熱心で、江戸藩邸に当時の有名な儒者を招いて、家臣とともによく講義を聞いていた。また儒者を家臣に加えて教えを受けることもしていたらしい。東江は老母を心配し辞職を願い出たが、利益は毎年母に会う期間を許す約束をして、引き留めに成功した。唐津での東江は、郡奉行や長崎勤番などを勤め、その学問や識見を現実の政策に生かし、善政を布いた。よって領民の尊敬は並ならぬものだったらしい。利益の信任も厚く、新参の身であった東江を、500石の家老格に抜擢し、嫡男利実の養育もさせた。その後東江は江戸藩邸詰めを命ぜられたが、母の病が重くなったので看病のため帰郷し、母の死を看取った。しかし唐津に帰る前に自身も病没してしまった。東江は死の床で江戸の方角を拝し、涙して利益の恩を謝したという。後に東江の学問は唐津において「奥流の学」として確立した。 正徳3年(1713年)閏5月25日、死去。享年64。跡は利実が継いだ。
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