2度の移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 10:09 UTC 版)
「アトランタ・ブレーブス」の記事における「2度の移転」の解説
元々野球熱は高かったがMLB球団がなかったミルウォーキー(現・ボルチモア・オリオールズが当初1901年にミルウォーキーを本拠地としていたが、1年で移転した)で、ブレーブス(ミルウォーキーを本拠地とした経験のある球団はブルワーズを名乗ることが多かったが、当球団はブレーブスの愛称のまま活動した)は熱烈な歓迎を受けた。移籍初年度の1953年、新球場であるミルウォーキー・カウンティ・スタジアムでは、182万人という当時のナ・リーグ史上最多となる観客動員を記録し、その勢いに乗ってチームもリーグ2位に浮上した。この年にはエディ・マシューズが本塁打王を獲得し、1954年にはボストン時代にスカウトしたハンク・アーロンがメジャーデビューするなど、この2人を中心とした新たなスター選手の台頭も重なることとなった。1954年から4シーズン続けて観客数は200万人を超え、1957年には移転後初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではケーシー・ステンゲル率いるヤンキースとの激戦を制し、4勝3敗で43年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。1958年にもリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは再度ヤンキースと対戦したが、今度は3勝4敗で敗れた。 1959年はロサンゼルス・ドジャースと同率首位に並び、3試合のプレイオフを行ったが、2連敗でリーグ3連覇を逸した。1960年代に入ると徐々にチームは低迷し、それと共に客足も鈍くなった。その間にはスパーンが13度目の20勝、アーロンが本塁打王や打点王を獲得するなど、選手の活躍は相変わらずだったが、個人の成績とは裏腹にリーグ優勝には届かなかった。1965年には観客数が55万人まで落ち込み、球団は球場賃貸契約の終了と共にアトランタへの移転を決定した。 アトランタに移籍した初年度こそ、観客動員は153万人を記録するなど、まずまずの人気を誇った。チームの下位低迷が続くと、こちらでも徐々に人気は下落した。同年にはNFLのアトランタ・ファルコンズも誕生し、絶大な人気を誇っていたのとは対照的だった。1969年、東西地区制となり、ブレーブスは西地区に在籍する。この年にはナックルボールで知られるフィル・ニークロ、44本塁打を記録したアーロンらの活躍で、初の地区優勝を果たした。リーグ優勝決定シリーズでは、「ミラクル・メッツ」と呼ばれ、快進撃を続けていたニューヨーク・メッツにあっさりと3連敗し、リーグ優勝を逃している。
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