2代・氏綱と3代・氏康の時代
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「北条幻庵」の記事における「2代・氏綱と3代・氏康の時代」の解説
大永3年(1523年)に兄・氏綱が父・早雲の遺志を継いで箱根権現の社殿を再造営した時の棟札に、39世別当の海実と並んで「伊勢菊寿丸」の名が見える。 大永2年(1521年)から近江・三井寺に入寺し、大永4年(1524年)に出家(『宗長手記』)。この年か翌年に箱根権現の40世別当になったとみられ、天文7年(1538年)頃まで在職した。別当になった際に長綱と名乗った(『藤川百首奥書』)。 天文4年(1535年)8月の武田信虎との甲斐山中合戦、同年10月の上杉朝興との武蔵入間川合戦に一軍を率いて合戦に参加した。 天文5年(1536年)頃から宗哲と名乗った(『藤川百首奥書』)。宗哲の名は大徳寺系の法名である(大徳寺系は宗・紹・妙・義の中から一字取ることを古格慣習としていた)。 天文7年(1538年)10月5日に松戸で行われた小弓公方との合戦で、「箱根殿」が先陣を率いたことが六巻本『北条記』にみえる。 天文9年(1540年)に、別当の地位を退いた。 黒田基樹は、別当の地位を退いた後も、箱根権現領が幻庵の名義で安堵を受けていることから、実権は手放していなかった、としている。。 天文11年(1542年)5月、甥にあたる玉縄城主の北条為昌が死去したことに伴い、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになる。天文12年(1543年)に幻庵は「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始めていることから(『石雲寺文書』)、自らの支配地強化に乗り出したものと解釈されている。 印判状は、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれている。 久野は小田原郊外にある幻庵の屋敷(久野屋敷)の所在地であるが、箱根を事実上の支配下に置いて家中にも大きな影響力を与えた幻庵の本拠地であったため、普通の武家屋敷である幻庵屋敷を「くのゝ城」と誤認する者もいた(毛利家文書『北条家人数覚書』)。 幻庵とその後継者たちは「久野殿」と称されたために、研究者の間において幻庵の系統は久野北条氏(家)と称されている。 天文15年(1546年)河越城の戦いに一軍を率いて参加した。 永禄2年(1559年)2月作成の「北条家所領役帳」 によれば、家中で最大の5457貫86文の所領を領有した。これは次に多い松田憲秀(2798貫110文)の約2倍にあたり、直臣約390名の所領高合計64250貫文の1割弱を一人で領有していたことになる。 永禄3年(1560年)、長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物説あり)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。また甥にあたる、北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。その後ほどなくして、氏尭が没した。 永禄4年(1561年)3月の曽我山における上杉謙信との合戦の後、合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言した(『大藤文書』)。 永禄12年(1569年)に武田信玄が小田原城を攻撃した際に、軍評定で松田憲秀とともに籠城を主張した。同年、後北条氏方の駿河在番衆が籠城中の小田原へ向かい手薄になった隙に、信玄は加島から富士川を渡って蒲原城を攻め、同城は落城。少勢で籠城していた幻庵の次男・新三郎(綱重)と三男・少将(長順)らが討死した(蒲原城の戦い)。 六巻本『北条記』は、新三郞の怨霊は蒲原の山中に止まってしばしば幽霊となって現われ、地元の人々を恐れさせた、と伝えている。 男子の後継ぎを失った幻庵は沈みがちになり、高齢にもさしかかっていて、いつ亡くなるかもわからなかったため、氏康は7男の幼名・西堂を幻庵の末女と結婚させ、養嗣子・三郎として所領を継がせた。幻庵は隠居して幻庵宗哲と号した。 同年の越相同盟の成立によって三郎は越後の上杉謙信の養子(上杉景虎)となり、元亀元年(1570年)に越後へ移ったため、大甥である北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫の氏隆に継がせた。 六巻本『北条記』は、このとき三郎は夫婦で越後へ行き、妻である幻庵の末女は御館の乱の後、久野へ戻って右衛門佐(氏光)と再婚したが子供に恵まれず、右衛門佐は今川氏真の妻に使えていた富樫介の女のことを思っており、子供も数多できた、としている。三郎が養子入りしたときに長尾政景の女が三郎の妻となった(このとき離縁した)ともいわれている。
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