1988年-2002年
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「スーパーバイク世界選手権」の記事における「1988年-2002年」の解説
参戦車両の多様性を確保し車両間の性能の均衡を図るため、エンジンの気筒数毎に異なる排気量区分と最低重量が設定された。同一排気量であれば気筒数が多い方が高回転・高出力化に有利なため、気筒数が少ないほど排気量上限が大きく、最低重量も軽く設定され、4気筒は600-750cc・162kg、3気筒は600-900cc・155kg、2気筒は750-1,000cc・147kgであった。 選手権が始まった当初、国産4気筒車両の排気量は皆上限の750ccに達していたが、2気筒車両であるドゥカティの参戦車両851の排気量は851ccと上限の1,000ccに達していなかったこともあってこの排気量上限と最低重量の設定は妥当なものだと考えられていたが、開催年を重ねるに連れて2気筒車両の優位性が顕在化していくことになる。開催初年度の1988年から2年連続でホンダのフレッド・マーケルがライダータイトルを、1990年までの3年連続でホンダが750cc4気筒のRC30でマニュファクチャラータイトルを獲得したが、ドゥカティは3年目の1990年に排気量を888ccに拡大した851SP2を投入しレイモン・ロッシュがライダータイトルを獲得、翌1991年にも888(英語版)でダグ・ポーレンがライダータイトルを獲得するとともに初のマニュファクチャラータイトルを獲得、以後毎年のようにライダー・マニュファクチャラー両タイトルを獲得していった。ドゥカティは参戦車両のモデルチェンジの度に排気量を拡大、1995年の916CORSA(996cc)でほぼ上限に達する頃には国産4社を圧倒していた。この間、1993年にカワサキのスコット・ラッセルがライダータイトルを獲得しているが、マニュファクチャラータイトルはドゥカティが1996年まで6年連続で獲得している。FIMは車両レギュレーションが2気筒車両に有利に働いていると判断、1996年より最低重量を気筒数に関わらず162kgに統一した。国産4社は排気量上限の見直しを求めていたが、こちらは受け入れられなかった。 この間、1995年に永井康友の死亡事故を受け安全性向上のためトレー状のアンダーカウルの義務化、ステップ先端の形状変更といったレギュレーション変更が行われている 1997年にホンダとジョン・コシンスキーがライダー・マニュファクチャラー両タイトルを獲得、ドゥカティに一矢報いたものの、ホンダはこの先750cc4気筒では1,000cc2気筒に勝てないと判断し2000年以降1,000ccV型2気筒のVTR1000SPWを投入、その結果コーリン・エドワーズが2000年と2002年、2度のライダータイトルを獲得したが、参戦台数が少なかったこともありマニュファクチャラータイトルは未獲得に終わっている。 この時期、スズキも2気筒車両への転向を模索しており1998年にTL1000Rを発売、スーパーバイク世界選手権への実戦投入には至らなかったものの、後にビモータがこのエンジンをSB8に採用、2000年シーズンに1勝を挙げている。 1999年、アプリリアが2気筒1,000ccのRSV1000で参戦を開始した。この年ドゥカティのカール・フォガティが4度目のタイトルを獲得している。 2000年、ヤマハ・YZF-R7を駆る芳賀紀行がエドワーズと年間王者を争ったが(年間2位)、トロイ・コーサーが参戦2年目のアプリリアRSV1000で芳賀の年間4勝を上回る5勝を挙げるなど2気筒車両の優位性はさらに色濃くなった。4気筒車両が2気筒車両と互角の戦いをしたのはこのシーズンが最後であり、翌2001年、4気筒車両は全26レース中わずか1勝のみに終わり、もはや2気筒の有利は決定的なものであった。 当時、国産4社のスーパースポーツの主力モデルは900cc-1,000ccの4気筒車両に移っており、750cc4気筒のスーパースポーツ車両はレースのためだけに販売されている状態になりつつあった。市場が縮小している750cc車両で2気筒優遇レギュレーションの勝てないレースをしても市販車の販促にはつながらず、国産4社は2002年から4ストローク化されるロードレース世界選手権(MotoGP)に注力することを選択、ヤマハはすでに2000年限りでワークスチームを撤退させており、ホンダとカワサキも2002年限りでワークスチームを撤退させる決定をするなど、スーパーバイク世界選手権への関与は大幅に縮小されていった。 2002年、車両間の性能バランス調整のため4気筒車両の最低重量を2気筒車両よりも5kg軽くするレギュレーション変更が行われたが、内訳は2気筒車両2kg増、4気筒車両3kg減と4気筒勢により多くの負担を強いるもので実効性は無く、ついに4気筒勢の表彰台は皆無となった。 本レギュレーション下で行われた15年間のマニュファクチャラータイトル獲得数は2気筒のドゥカティ11回に対し4気筒のホンダ4回、ライダータイトルにおいても2気筒車両によるもの11回に対し、4気筒車両によるもの4回と2気筒勢が圧倒しており、2気筒車両の優位は明らかだった。当時のスーパーバイク世界選手権はイタリアのFGスポーツが運営しており、同じイタリア企業のドゥカティを優遇していたとの見方も強い。
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