1988年-2002年とは? わかりやすく解説

1988年-2002年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:36 UTC 版)

スーパーバイク世界選手権」の記事における「1988年-2002年」の解説

参戦車両多様性確保し車両間の性能均衡を図るため、エンジン気筒毎に異な排気量区分と最低重量設定された。同一排気量であれば気筒数が多い方が高回転高出力化に有利なため、気筒数が少ないほど排気量上限大きく、最低重量軽く設定され4気筒は600-750cc・162kg、3気筒は600-900cc・155kg、2気筒は750-1,000cc・147kgであった選手権始まった当初国産4気筒車両排気量は皆上限の750ccに達していたが、2気筒車両であるドゥカティ参戦車両851排気量は851ccと上限の1,000ccに達していなかったこともあってこの排気量上限と最低重量設定は妥当なものだと考えられていたが、開催年を重ねるに連れて2気筒車両優位性顕在化していくことになる。開催初年度1988年から2年連続ホンダフレッド・マーケルがライダータイトルを、1990年までの3年連続ホンダが750cc4気筒のRC30でマニュファクチャラータイトルを獲得したが、ドゥカティ3年目1990年排気量を888ccに拡大した851SP2を投入しレイモン・ロッシュがライダータイトルを獲得、翌1991年にも888英語版)でダグ・ポーレンがライダータイトルを獲得するとともに初のマニュファクチャラータイトルを獲得以後毎年のようにライダー・マニュファクチャラー両タイトル獲得していった。ドゥカティ参戦車両モデルチェンジの度に排気量拡大1995年の916CORSA(996cc)でほぼ上限達する頃には国産4社を圧倒していた。この間1993年カワサキスコット・ラッセルがライダータイトルを獲得しているが、マニュファクチャラータイトルはドゥカティ1996年まで6年連続獲得している。FIM車両レギュレーション2気筒車両有利に働いていると判断1996年より最低重量気筒数に関わらず162kgに統一した国産4社は排気量上限見直し求めていたが、こちらは受け入れられなかった。 この間1995年永井康友死亡事故を受け安全性向上のためトレー状のアンダーカウル義務化ステップ先端形状変更といったレギュレーション変更が行われている 1997年ホンダジョン・コシンスキーがライダー・マニュファクチャラー両タイトル獲得ドゥカティ一矢報いたものの、ホンダこの先750cc4気筒では1,000cc2気筒勝てないと判断し2000年以降1,000ccV型2気筒のVTR1000SPWを投入その結果コーリン・エドワーズ2000年2002年2度のライダータイトルを獲得したが、参戦台数少なかったこともありマニュファクチャラータイトルは未獲得終わっている。 この時期スズキ2気筒車両への転向模索しており1998年TL1000R発売スーパーバイク世界選手権へ実戦投入には至らなかったものの、後にビモータがこのエンジンSB8採用2000年シーズンに1勝を挙げている。 1999年アプリリア2気筒1,000ccのRSV1000で参戦開始したこの年ドゥカティカール・フォガティ4度目タイトル獲得している。 2000年ヤマハ・YZF-R7駆る芳賀紀行エドワーズ年間王者争ったが(年間2位)、トロイ・コーサー参戦2年目アプリリアRSV1000で芳賀年間4勝を上回る5勝を挙げるなど2気筒車両優位性はさらに色濃くなった。4気筒車両2気筒車両互角戦いをしたのはこのシーズン最後であり、翌2001年4気筒車両は全26レース中わずか1勝のみに終わり、もはや2気筒の有利は決定的なものであった当時国産4社のスーパースポーツ主力モデルは900cc-1,000ccの4気筒車両移っており、750cc4気筒スーパースポーツ車両レースのためだけに販売されている状態になりつつあった。市場縮小している750cc車両2気筒優遇レギュレーション勝てないレースをしても市販車販促にはつながらず、国産4社は2002年から4ストローク化されるロードレース世界選手権MotoGP)に注力することを選択ヤマハはすでに2000年限りワークスチーム撤退させており、ホンダカワサキ2002年限りワークスチーム撤退させる決定をするなど、スーパーバイク世界選手権へ関与大幅に縮小されていった2002年車両間の性能バランス調整のため4気筒車両の最低重量2気筒車両よりも5kg軽くするレギュレーション変更が行われたが、内訳2気筒車両2kg増、4気筒車両3kg減と4気筒勢により多く負担を強いるもので実効性無く、ついに4気筒勢の表彰台皆無となった。 本レギュレーション下で行われた15年間のマニュファクチャラータイトル獲得数2気筒ドゥカティ11回に対し4気筒ホンダ4回、ライダータイトルにおいても2気筒車両よるもの11回に対し4気筒車両よるもの4回と2気筒勢が圧倒しており、2気筒車両優位明らかだった当時スーパーバイク世界選手権イタリアFGスポーツ運営しており、同じイタリア企業ドゥカティ優遇していたとの見方も強い。

※この「1988年-2002年」の解説は、「スーパーバイク世界選手権」の解説の一部です。
「1988年-2002年」を含む「スーパーバイク世界選手権」の記事については、「スーパーバイク世界選手権」の概要を参照ください。

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