1983–1991とは? わかりやすく解説

1983–1991

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 22:11 UTC 版)

ローリング・ストーンズ」の記事における「1983–1991」の解説

アトランティックとの契約終える前の1983年後半に、ストーンズは『アンダーカヴァー』(イギリス3位; アメリカ4位)をリリースした好意的なレビュータイトルトラックトップ10入りにもかかわらずアルバムの売り上げ期待外れサポートツアー行われなかった。新たなレーベルCBSレコードアトランティックの旧譜を引き継いだ。 このアルバムセッションの頃から徐々にメンバー内の人間関係が悪化8182年ツアー中にもそれはミックキースとの間に現れ始めているが)し始めミックCBSソロ契約を結び、キースはこれに対して驚き感じていた。そして、ミック最初ソロアルバムのために1984年大半費やすこととなったまた、彼はストーンズ枠組みの中で無意味にされると感じていたと述べている。1985年までにミックソロレコーディング多く時間費やしストーンズ1986年アルバムダーティ・ワーク』(イギリス4位; アメリカ4位)では多くの曲がキース作の物であり、以前アルバムよりロン多く貢献をした。本作パリ録音されキースレコーディング続けて先に進めたのに対しミック休みがちであった1985年6月ミックデヴィッド・ボウイと共に「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を録音プロモーションビデオ撮影した。これはライヴエイドのチャリティ・ムーブメントの一環として行われたであった。これはミック最初のソロ・パフォーマンスの一つで、同シングルイギリスで1位、アメリカで7位を獲得した1985年12月バンド共同設立者でありキーボード担当していたイアン・スチュアート心臓発作により死去した47歳であったバンド1986年2月グラミー賞、ライフタイム・アチーブメント賞を受賞する2日前にロンドン100クラブプライベート追悼コンサート行ったミックソロ活動チャーリーアルコールドラッグ依存人間関係ギクシャクしていた中、キースがうまくとりまとめ製作したダーティ・ワーク』は1986年3月リリースされた。同作アメリカでトップ5ヒットとなった「ハーレム・シャッフル」が収録されていたにもかかわらず賛否両論評価受けたまた、前年死去したイアン・スチュアートの短いピアノ最後に収録されている。キースミックの関係は最悪で、ミックはアルバムプロモーションのためのツアー拒否し代わりにストーンズナンバーを含んだ自身ソロツアー行ったキースこの期間のミックとの関係を「第三次世界大戦」と呼んだバンド内のギクシャクした人間関係結果ストーンズはほぼ解散状態であったミックソロシーズ・ザ・ボス』(1985年イギリス6位; アメリカ13位)と『プリミティヴ・クール』(1987年イギリス26位; アメリカ41位)はある程度成功得た。そしてストーンズ不活発なままの1988年メンバーの中で唯一ソロ活動をしていなかったキースがついに自身バンド、エクスペンシヴ・ワイノーズを結成しソロ活動開始最初ソロアルバムトーク・イズ・チープ』(イギリス37位; アメリカ24位)を発表した同作ファン評論家から好意的に受け入れられアメリカではゴールドアルバムを獲得した1989年前半ロックの殿堂入りした。ミックキース憎しみ超えてニューアルバムの製作を働きかけた。実に3年ぶりとなるアルバムスティール・ホイールズ』(イギリス2位; アメリカ3位)はストーンズ氷河期終わりを告げるのだったシングルは「ミックスト・エモーションズ」(アメリカ5位)、「ロック・アンド・ア・ハード・プレイス」(アメリカ23位)、「オールモスト・ヒア・ユー・サイ」(アメリカ50位)がリリースされた。中でもミックスト・エモーションズ」はメンバー和解象徴するナンバーであり、人間関係悪化より停滞していたバンド活動の停止終止符を打つこととなったまた、「コンチネンタル・ドリフト」は1989年モロッコタンジール録音され、マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカが加わったコーディネートはトニー・キングとシェリー・ナッティングが行い、BBCのドキュメンタリー「ザ・ローリング・ストーンズ・イン・モロッコ」がナイジェル・フィンチによって製作された。 アルバムのリリース続き8年ぶりとなる全米ツアー日本ヨーロッパなどを含むワールド・ツアー北米及び日本では「スティール・ホイールズ・ツアー」、ヨーロッパでは「アーバン・ジャングル・ツアー」と銘打たれた)を開始ツアー実施告知イベント化したのもこの頃からである。前座リヴィング・カラーガンズ・アンド・ローゼズなどが担当しバンドにはホーンセクション、バックアップシンガーのリサ・フィッシャー、バーナード・ファウラーが加わった。同ツアーからのライブアルバムフラッシュポイント』(イギリス6位; アメリカ16位)がリリースされた。同作には新曲2曲「ハイワイアー」「セックス・ドライヴ」が含まれた。また、ツアーからIMAX仕様のライブフィルム「アット・ザ・マックス」が1991年公開された。加えてツアーでは東京ドームでの初来日公演実現した麻薬常習などを理由に、以前日本政府から許可降りなかったもので、その後何度来日を果たすこととなる。 このツアービル・ワイマンにとって最後ツアーとなったビルストーンズ脱退したが、1993年1月まで脱退を公式に発表しなかった。彼はその後バンドの歴史綴ったストーン・アローン」を出版した数年後にはリズム・キングスを結成し、再びレコーディングコンサートツアー始めた

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1983 - 1984年「五九豪雪」も参照気象庁によって正式に異常気象とされた冬である。59豪雪とも言われる。平均気温は全国的に平年を大幅に下回り、東日本や西日本を中心に観測史上有数の寒冬となり1944 - 1945年に次いで2番目の低温であった。特に1月中旬から2月にかけては全国的に平年を7 - 8℃下回る日が続き、冬平均でも東北から九州にかけて平年より2.3 - 2.8℃も低かった。東日本の2月は平年を3.4℃も下回った。1月以降は南岸低気圧での大雪も頻発し、降雪量は仙台148cm、横浜109cm、東京92cm、京都79cm、名古屋59cm、岡山35cm、大分25cm、積雪量は大阪17cmなど、北日本から西日本まで太平洋側の各地で軒並み観測史上例のない記録的な大雪となった。秩父市では11月から3月まで4ヶ月連続で全く途切れのない冬日となるなど、長期にわたって冬型気圧配置と日本付近への寒気の流れ込みが続き、気温が低い状態が継続したところに南岸低気圧が次々通過した。この異常低温・大雪は春先まで続き、関東・甲信以西の太平洋側でも6日以上も冬日を記録、さらに前年11月及び4〜5月も異常低温になり梅雨期まで半年以上に亘り低温傾向は解消されず4月下旬から5月上旬に北日本で季節外れの豪雪に見舞われ、さくらの開花も各地で大幅に遅れた。1983年秋から日本に寒波と豪雪をもたらすラニーニャ現象が断続的に発生していた。1984 - 1985年

1983 - 1988 迷走~活動停止

1983 - 1989年

1983 FIFAワールドユース選手権出場国

1983-1986年

1983–1987

1983–1991

1983–2000: デビュー前まで

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