1983 - 1988 迷走~活動停止とは? わかりやすく解説

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1983 - 1988 迷走~活動停止

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 02:54 UTC 版)

ガールスクール」の記事における「1983 - 1988 迷走~活動停止」の解説

バンドイギリス戻り、再びレコーディングライブ、およびプロモーション明け暮れる。しかし、今度はリード・ギタリスト、ケリー・ジョンソン脱退危機瀕する他のメンバーは、ジョンソンをなんとかグループに留まらせようと、スレイドシーン復帰したノディ・ホルダージム・リープロデュース迎え1983年10月、アメリカン・マーケットを強く意識したアルバム『プレイ・ダーティ』(Play Dirty)をリリース。しかし、彼女ら持ち味であるワイルドパンキッシュなバイカー・ロック・スタイルを封印しスレイドの「ハイ・アンド・ドライ」、T・レックスの「20センチュリー・ボーイ」など、グラム・ロックカバー収めたこのアルバム不評を買い、ワールド・ワイドでのディストリビューターであるポリグラム・レコード積極的なプロモーションをせず、また母国イギリスでもトップ50にも到達できずに終わったZZトップのサポート・アクトとして臨んだウェンブリー・アリーナでのステージ不調に終わりバンドイメージ低下していった。 前年続きクワイエット・ライオットブルー・オイスター・カルトらのサポート・アクトとしてアメリカ・ツアー敢行するも、ツアー終了前にケリー・ジョンソン脱退バンドヴィジュアル面音楽面をリードしていたジョンソン脱退遠因となり、ブロンズ・レコードとの契約失った1984年女性ハードロック・バンドシー(She)の元メンバー、クリス・ボナッツィ(リードギター)、ジャッキー・ボディミード(キーボードボーカル)を獲得5人編成となったガールスクールは、かつてランナウェイズ手掛けたマーキュリー契約マーキュリーは、ハートリタ・フォード女性ロック・アーティストの対抗馬としてガールスクールプッシュする意向示したが、初期シン・リジィ、トーヤ、マリリオンガールなどを手掛けたニック・トーバーのプロデュース制作したアルバムランニング・ワイルド』(Running Wild) は、かつての彼女たちスタイルから大きく逸脱したキーボード主体アルバムで、結局レコード会社大規模なサポートをせず、セールス的にも惨敗喫した(後にマコーリフとデュフォートは雑誌ケラング!」のインタビューにおいて、このアルバムを「最悪」と評している)。 1985年、ボディミードがソロ転向のため脱退。『ランニング・ワイルド』のセールス不振に伴いマーキュリーガールスクールとの契約破棄バンド彼女たちルーツである荒々しいバイカー・ロックの基本立ち返ることを決めマコーリフだけをボーカルとしてフィーチャーする4人編成戻った1985年11月から12月にかけてブルー・オイスター・カルトサポートとしてUKツアー敢行当面目標を、できるだけ多くステージで演奏することに置き、かつてのファン呼び戻すことに全力傾けた1986年初頭、再びレミー提案で新レーベルGWR契約同年7月、『ヒット・アンド・ラン』の頃に立ち返ったサウンドのニュー・アルバム『ナイトメア・アット・メイプル・クロス』(Nightmare at Maple Cross) をリリースプレス評価高かったもののイギリスではチャートインせず、北米でのリリース翌年持ち越された。1987年にはジル・ウェストンが脱退後任に元ロック・ゴデスのトレイシー・ラムが加入この年旧友モーターヘッドのサポーティング・アクトとしてのツアーテレビ出演等明け暮れる1988年10月アルバム『テイク・ア・バイト』(Take a Bite) をリリースプロモーションのため、ゲイリー・グリッターとのイギリスアメリカ・ツアー敢行1989年にはディオとのヨーロッパ・ツアーブラック・サバスジョイントしてのソビエト公演行った。しかし、ツアー後にGWRから契約破棄される世界潮流グランジ、およびより過激なヘヴィメタル・サウンドに傾いており、NWOBHM からブレイクしたバンド多く解散するか、方向転換余儀なくされて行く中で、ガールスクールもまたフルタイム活動する能力失い、一旦グループ解散する

※この「1983 - 1988 迷走~活動停止」の解説は、「ガールスクール」の解説の一部です。
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1982年頃から

1983

1983 - 1984

1983 - 1984年「五九豪雪」も参照気象庁によって正式に異常気象とされた冬である。59豪雪とも言われる。平均気温は全国的に平年を大幅に下回り、東日本や西日本を中心に観測史上有数の寒冬となり1944 - 1945年に次いで2番目の低温であった。特に1月中旬から2月にかけては全国的に平年を7 - 8℃下回る日が続き、冬平均でも東北から九州にかけて平年より2.3 - 2.8℃も低かった。東日本の2月は平年を3.4℃も下回った。1月以降は南岸低気圧での大雪も頻発し、降雪量は仙台148cm、横浜109cm、東京92cm、京都79cm、名古屋59cm、岡山35cm、大分25cm、積雪量は大阪17cmなど、北日本から西日本まで太平洋側の各地で軒並み観測史上例のない記録的な大雪となった。秩父市では11月から3月まで4ヶ月連続で全く途切れのない冬日となるなど、長期にわたって冬型気圧配置と日本付近への寒気の流れ込みが続き、気温が低い状態が継続したところに南岸低気圧が次々通過した。この異常低温・大雪は春先まで続き、関東・甲信以西の太平洋側でも6日以上も冬日を記録、さらに前年11月及び4〜5月も異常低温になり梅雨期まで半年以上に亘り低温傾向は解消されず4月下旬から5月上旬に北日本で季節外れの豪雪に見舞われ、さくらの開花も各地で大幅に遅れた。1983年秋から日本に寒波と豪雪をもたらすラニーニャ現象が断続的に発生していた。1984 - 1985年

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