1983 - 1988 迷走~活動停止
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「ガールスクール」の記事における「1983 - 1988 迷走~活動停止」の解説
バンドはイギリスに戻り、再びレコーディング、ライブ、およびプロモーションに明け暮れる。しかし、今度はリード・ギタリスト、ケリー・ジョンソン脱退の危機に瀕する。他のメンバーは、ジョンソンをなんとかグループに留まらせようと、スレイドでシーンに復帰したノディ・ホルダー、ジム・リーをプロデュースに迎え、1983年10月、アメリカン・マーケットを強く意識したアルバム『プレイ・ダーティ』(Play Dirty)をリリース。しかし、彼女らの持ち味であるワイルドでパンキッシュなバイカー・ロック・スタイルを封印し、スレイドの「ハイ・アンド・ドライ」、T・レックスの「20センチュリー・ボーイ」など、グラム・ロックのカバーを収めたこのアルバムは不評を買い、ワールド・ワイドでのディストリビューターであるポリグラム・レコードは積極的なプロモーションをせず、また母国イギリスでもトップ50にも到達できずに終わった。ZZトップのサポート・アクトとして臨んだウェンブリー・アリーナでのステージも不調に終わり、バンドのイメージは低下していった。 前年に続き、クワイエット・ライオット、ブルー・オイスター・カルトらのサポート・アクトとしてアメリカ・ツアーを敢行するも、ツアー終了前にケリー・ジョンソンが脱退。バンドのヴィジュアル面、音楽面をリードしていたジョンソンの脱退が遠因となり、ブロンズ・レコードとの契約も失った。 1984年、女性ハードロック・バンド、シー(She)の元メンバー、クリス・ボナッツィ(リードギター)、ジャッキー・ボディミード(キーボード、ボーカル)を獲得。5人編成となったガールスクールは、かつてランナウェイズを手掛けたマーキュリーと契約。マーキュリーは、ハート、リタ・フォードら女性ロック・アーティストの対抗馬としてガールスクールをプッシュする意向を示したが、初期のシン・リジィ、トーヤ、マリリオン、ガールなどを手掛けたニック・トーバーのプロデュースで制作したアルバム『ランニング・ワイルド』(Running Wild) は、かつての彼女たちのスタイルから大きく逸脱したキーボード主体のアルバムで、結局レコード会社も大規模なサポートをせず、セールス的にも惨敗を喫した(後にマコーリフとデュフォートは雑誌「ケラング!」のインタビューにおいて、このアルバムを「最悪」と評している)。 1985年、ボディミードがソロ転向のため脱退。『ランニング・ワイルド』のセールス不振に伴い、マーキュリーはガールスクールとの契約を破棄。バンドは彼女たちのルーツである荒々しいバイカー・ロックの基本に立ち返ることを決め、マコーリフだけをボーカルとしてフィーチャーする4人編成に戻った。1985年11月から12月にかけてブルー・オイスター・カルトのサポートとしてUKツアーを敢行。当面の目標を、できるだけ多くのステージで演奏することに置き、かつてのファンを呼び戻すことに全力を傾けた。 1986年初頭、再びレミーの提案で新レーベルGWRと契約。同年7月、『ヒット・アンド・ラン』の頃に立ち返ったサウンドのニュー・アルバム『ナイトメア・アット・メイプル・クロス』(Nightmare at Maple Cross) をリリース。プレスの評価は高かったもののイギリスではチャートインせず、北米でのリリースは翌年に持ち越された。1987年にはジル・ウェストンが脱退、後任に元ロック・ゴデスのトレイシー・ラムが加入。この年は旧友モーターヘッドのサポーティング・アクトとしてのツアー、テレビ出演等に明け暮れる。 1988年10月、アルバム『テイク・ア・バイト』(Take a Bite) をリリース。プロモーションのため、ゲイリー・グリッターとのイギリス、アメリカ・ツアーを敢行。1989年にはディオとのヨーロッパ・ツアー、ブラック・サバスとジョイントしてのソビエト公演を行った。しかし、ツアー後にGWRから契約を破棄される。世界の潮流はグランジ、およびより過激なヘヴィメタル・サウンドに傾いており、NWOBHM からブレイクしたバンドの多くが解散するか、方向転換を余儀なくされて行く中で、ガールスクールもまたフルタイムで活動する能力を失い、一旦グループは解散する。
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