1975年 1998年とは? わかりやすく解説

1975年(昭和50年度) - 1998年(平成10年度)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 06:19 UTC 版)

土師ニサンザイ古墳」の記事における「1975年昭和50年度) - 1998年平成10年度)」の解説

この期間に、本古墳周囲での調査は、前方部北部発掘調査が1箇所のみで、その他は範囲確認のためのトレンチ調査工事立ち会いに於ける断面観察だけであるが、多く所見得られている。 内濠後円部側の東側の濠外肩部分で墓地造成における事前調査が行われた。墓地は、後円部側の濠堤上作られ1975年昭和50年)濠を埋めることで墳丘側に敷地拡張しており、本来の内濠外肩は、現状よりも外側にあった。濠内の堆積層厚さ1.1メートル程度で、濠底は平坦に地山成形しているようである。各調地点で、地山削り成形した外肩斜面転落した葺石出土し、また多量円筒埴輪型、家型埴輪笠形鳥形木製品出土している。 内堤前方部側の北西の角付近で、堤改修工事において、断ち割り調査が行われた。2メートル上の盛土確認され中世から近世施工されたと考えられる盛土下位に、幅6メートル、高さ1メートル地山削った堤跡が残るが、築造時の堤の盛土層、埴輪列などの遺構遺物確認されず、築造時の堤は、近世盛土施工よりも前に崩落流出していたと考えられる近世行われた堤のかさ上げは、貯水量を上げるめと考えられるが、その水位の上昇により墳丘1段目斜面崩落進行させたと考えられる。そのため現状墳丘290メートル超えることは確実である。 古墳南側堤上範囲確認調査工事立ち会いが行われた。近世施工されであろう盛土確認したが、築造時の堤の構築層や埴輪列などの遺構遺物確認できなかった。この盛土も、貯水量を上げるためであると考えられ調査行われていないが、前方部前面の堤も、近世かなりの量の盛土が行われていると推測できる外濠古墳周辺で、区画整理事業が行われる前に、現・内濠外周は、末永雅雄提唱した周庭帯」の典型例であると確認されており、外濠存在予想されていた。そのため、外堀位置深さ把握するために、掘削ボーリングなどの調査が行われた。 ※ 周庭帯は、航空写真用い古墳観察することで、古墳周濠外側に、古墳取り囲むように、明らかに広範囲人工的な平坦な広がり確認できる場合があり、その部分外堀などの遺構がある可能性高く、その部分末永雅雄は「周庭帯」と提唱していた。(詳細外部リンクの『末永博士周庭帯参照内濠外側北側で、公園造成における事前発掘調査範囲確認調査工事立ち会いが行われた。多く箇所外濠確認された。地山削り外濠の内肩斜面と内堤を広範囲確認し、内肩斜面途中で平坦面がある2段落ち築造されていた。上段斜面裾に溝状遺構があったが、築造時のものか不明である。下段斜面下端から少量の礫が出土し、内肩斜面葺石並べられていた可能性考えらる。遺物として、多量円筒埴輪ほぞ孔のある木製部材出土した。ある調査地で、2段落ち築造されていた内肩の斜面で、濠幅が上段で約23.5メートル下段で約19.0メートル確認された。ただし、上段斜面は内堤の基部相当する可能性がある。別の調査地では、遺物円筒埴輪の他に、瓦器、瓦質土器出土したことから、鎌倉時代には外壕埋没していなかったと考えられる内濠外側西側で、範囲確認調査工事立ち会いが行われた。外濠確認され北側土曜2段落ちになっており、下段の濠幅13メートル深さ0.9メートル以上が確認され遺物として、円筒埴輪、家、動物、盾などの形象埴輪出土した別の調査地では、上段濠幅、16.2メートル以上、下段濠幅、10.8メートル以内、内肩平坦面での深さ1.2メートル確認した内濠外側南側で、範囲確認調査工事立ち合いが行われている。外肩斜面や内肩斜面確認され、ここでも2段落ち斜面確認された。上段斜面は堤の基部可能性があり、また、2段落ち築造当初からの物であれば外濠取り囲む外提が存在した可能性考えられる上段濠幅は各調査地で18メートル程度下段濠幅は、12メートル - 16メートル以上、深さ1.5メートル前後確認されている。また帯状態にあったことを推測させる粘性の高い粘質土が堆積していることを確認されている。遺物としては、口径40センチメートル上の大型品を含む多量円筒埴輪須恵器などが出土した内堀外側東側では、下水管敷設ガス管敷設後円部東側道路工事立ち合いが行われた。全ての地点で、道路路盤直下地山確認され外濠存在確認できなかった。後円部側の内堀外側は、北・西・南に比べ地形高くなっており、外堀が無い代わりに、堤を高くし、周辺との境界とした可能性もしくは元の地形が他よりも高く、非常に浅い濠だった可能性考えられる。 これらの調査から本古墳は、二重の濠を構え前方後円墳であることが判明したが、ただし外濠後円部側に関し、濠が完周しない、もしくは浅くなっていた可能性が高いと考えられる。また墳丘前方部大きいいのに伴い内堀外濠ともに前方部側が広がっている形態である。外堀含めた推測規模前方部側面最大490メートルである。墳丘主軸方向は、外濠存在明らかでないために、計測点を定められないが、畦畔痕跡沿って造られ道路の内寸で計測すると、推定475メートル前後となり、主軸長と最大幅がほぼ同程度で、外濠含めた形態正方形に近いことが確認できる外濠の内肩斜面2段堀り形状だったが、内肩斜面平坦面と外肩の高さが揃う箇所多くあり、内肩斜面の上段と外肩の高さでは差があるため、内肩斜面の上段部が内提の基部に当たる可能性が高い。外堀の幅を計測する場合下段幅で計測する築造時の状況に近いと考えられる。この計測法での外濠の幅は、北側20メートル前後西側10メートル前後南側15 - 16メートル以上となる。ただし、一段掘り確認された場所も多く改変されている可能性もある。 円筒埴輪形式から、時期的に大仙陵古墳に続くもので、大仙陵古墳よりも前方部巨大化し、百舌鳥古墳群では大仙陵古墳続き築造されていることから、大王陵と位置づけられると考えられる

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