1975年(昭和50年度) - 1998年(平成10年度)
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「土師ニサンザイ古墳」の記事における「1975年(昭和50年度) - 1998年(平成10年度)」の解説
この期間に、本古墳周囲での調査は、前方部北部の発掘調査が1箇所のみで、その他は範囲確認のためのトレンチ調査、工事立ち会いに於ける断面観察だけであるが、多くの所見が得られている。 内濠後円部側の東側の濠外肩部分で墓地造成における事前調査が行われた。墓地は、後円部側の濠堤上に作られ、1975年(昭和50年)濠を埋めることで墳丘側に敷地を拡張しており、本来の内濠外肩は、現状よりも外側にあった。濠内の堆積層の厚さは1.1メートル程度で、濠底は平坦に地山を成形しているようである。各調査地点で、地山を削り成形した外肩斜面と転落した葺石が出土し、また多量の円筒埴輪、鶏型、家型埴輪、笠形、鳥形木製品が出土している。 内堤前方部側の北西の角付近で、堤改修工事において、断ち割り調査が行われた。2メートル以上の盛土が確認され、中世から近世に施工されたと考えられる。盛土の下位に、幅6メートル、高さ1メートルの地山を削った堤跡が残るが、築造時の堤の盛土層、埴輪列などの遺構や遺物は確認されず、築造時の堤は、近世の盛土施工よりも前に崩落や流出していたと考えられる。近世に行われた堤のかさ上げは、貯水量を上げるめと考えられるが、その水位の上昇により墳丘1段目斜面の崩落を進行させたと考えられる。そのため現状の墳丘長290メートルを超えることは確実である。 古墳南側の堤上で範囲確認調査と工事立ち会いが行われた。近世に施工されたであろう盛土を確認したが、築造時の堤の構築層や埴輪列などの遺構や遺物は確認できなかった。この盛土も、貯水量を上げるためであると考えられ、調査は行われていないが、前方部前面の堤も、近世にかなりの量の盛土が行われていると推測できる。 外濠本古墳周辺で、区画整理事業が行われる前に、現・内濠の外周は、末永雅雄が提唱した「周庭帯」の典型例であると確認されており、外濠の存在が予想されていた。そのため、外堀の位置や深さを把握するために、掘削、ボーリングなどの調査が行われた。 ※ 周庭帯は、航空写真を用い古墳を観察することで、古墳周濠外側に、古墳を取り囲むように、明らかに広範囲な人工的な平坦な広がりを確認できる場合があり、その部分に外堀などの遺構がある可能性が高く、その部分を末永雅雄は「周庭帯」と提唱していた。(詳細は外部リンクの『末永博士と周庭帯』参照) 内濠外側の北側で、公園造成における事前発掘調査、範囲確認調査、工事立ち会いが行われた。多くの箇所で外濠が確認された。地山を削り外濠の内肩斜面と内堤を広範囲に確認し、内肩斜面の途中で平坦面がある2段落ちに築造されていた。上段の斜面裾に溝状遺構があったが、築造時のものか不明である。下段斜面下端から少量の礫が出土し、内肩斜面に葺石が並べられていた可能性が考えらる。遺物として、多量の円筒埴輪、ほぞ孔のある木製部材が出土した。ある調査地で、2段落ちに築造されていた内肩の斜面で、濠幅が上段で約23.5メートル、下段で約19.0メートルと確認された。ただし、上段斜面は内堤の基部に相当する可能性がある。別の調査地では、遺物に円筒埴輪の他に、瓦器、瓦質土器が出土したことから、鎌倉時代には外壕は埋没していなかったと考えられる。 内濠外側の西側で、範囲確認調査、工事立ち会いが行われた。外濠が確認され、北側土曜の2段落ちになっており、下段の濠幅13メートル、深さ0.9メートル以上が確認され、遺物として、円筒埴輪、家、動物、盾などの形象埴輪が出土した。別の調査地では、上段濠幅、16.2メートル以上、下段濠幅、10.8メートル以内、内肩平坦面での深さ1.2メートルを確認した。 内濠外側の南側で、範囲確認調査、工事立ち合いが行われている。外肩斜面や内肩斜面が確認され、ここでも2段落ちの斜面が確認された。上段の斜面は堤の基部の可能性があり、また、2段落ちが築造当初からの物であれば外濠を取り囲む外提が存在した可能性も考えられる。上段濠幅は各調査地で18メートル程度、下段濠幅は、12メートル - 16メートル以上、深さ1.5メートル前後が確認されている。また帯水状態にあったことを推測させる粘性の高い粘質土が堆積していることを確認されている。遺物としては、口径40センチメートル以上の大型品を含む多量の円筒埴輪、須恵器などが出土した。 内堀外側東側では、下水管敷設、ガス管敷設、後円部東側の道路の工事立ち合いが行われた。全ての地点で、道路路盤直下で地山が確認され、外濠の存在が確認できなかった。後円部側の内堀外側は、北・西・南に比べ地形が高くなっており、外堀が無い代わりに、堤を高くし、周辺との境界とした可能性、もしくは元の地形が他よりも高く、非常に浅い濠だった可能性も考えられる。 これらの調査から本古墳は、二重の濠を構える前方後円墳であることが判明したが、ただし外濠は後円部側に関し、濠が完周しない、もしくは浅くなっていた可能性が高いと考えられる。また墳丘の前方部が大きいいのに伴い、内堀、外濠ともに前方部側が広がっている形態である。外堀を含めた推測規模は前方部側面で最大490メートルである。墳丘の主軸方向は、外濠の存在が明らかでないために、計測点を定められないが、畦畔の痕跡に沿って造られた道路の内寸で計測すると、推定475メートル前後となり、主軸長と最大幅がほぼ同程度で、外濠を含めた形態は正方形に近いことが確認できる。外濠の内肩斜面は2段堀り形状だったが、内肩斜面の平坦面と外肩の高さが揃う箇所が多くあり、内肩斜面の上段と外肩の高さでは差があるため、内肩斜面の上段部が内提の基部に当たる可能性が高い。外堀の幅を計測する場合、下段幅で計測すると築造時の状況に近いと考えられる。この計測法での外濠の幅は、北側で20メートル前後、西側で10メートル前後、南側で15 - 16メートル以上となる。ただし、一段掘りで確認された場所も多く、改変されている可能性もある。 円筒埴輪の形式から、時期的に大仙陵古墳に続くもので、大仙陵古墳よりも前方部が巨大化し、百舌鳥古墳群では大仙陵古墳に続き築造されていることから、大王陵と位置づけられると考えられる。
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