1815年-1860年の諸紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
「英米関係」の記事における「1815年-1860年の諸紛争」の解説
イギリスの共同宣言提案への一方的対応である1823年のモンロー教書は、西半球(南北アメリカ大陸)におけるヨーロッパのさらなる侵略に対するアメリカの敵意を表明したものだった。それにもかかわらず、アメリカ合衆国は今後の展望がイギリスの政策と共通していたことやイギリス海軍がそれを実施したことから恩恵を受けた。1840年代には、いくつかの州がイギリスの投資家が所有する債券に関して債務不履行に陥った。その後、ロンドンの銀行家は国債を回避したが、アメリカの鉄道債に多額の投資を行なった。 幾つかの事案で、アメリカの将軍ウィンフィールド・スコットは感情を抑えて許容できる妥協点に到達することにより、聡明な外交官であることを証明した。スコットは1837年にキャロライン事件への対処に当たった。英領北アメリカ(現:オンタリオ州)から来た反政府勢力はニューヨークに逃げ、反乱が鎮圧された後にキャロライン号と呼ばれる小さなアメリカの船を使ってカナダに物資を密輸した。1837年後半、カナダ民兵が越境してアメリカに侵入して船を燃やしたことで、外交的抗議、イギリス恐怖症の再燃、その他の事件を引き起こした。 曖昧なメイン州とニューブランズウィック州の境界線を巡る緊張状態は、1839年の無血のアルーストック戦争で、互いに対立する林野業(木こり)集団を巻き込んだ。銃撃戦は無かったが双方とも国家の名誉を守り、まだまだ多くの森林地を得ようとした。それぞれの側には、明らかに相手側の方に訴訟で有力な言い分があることを示す、古い秘密の地図があったため、1842年のウェブスター=アッシュバートン条約で容易に妥協に達し、メイン州とミネソタ州の国境問題が解決した。1859年に無血のブタ戦争が、サンフアン諸島とガルフ諸島に関する国境の位置を決定した。 1844年から46年までのオレゴン境界紛争のように、アメリカ政権が民主主義の暴徒に迎合していると分かったことで、イギリスの指導者らは1840年代から1860年代にかけて常に悩みを抱えていた。しかし、イギリスの中流階級の世論は、言語、移民、福音主義のプロテスタント、自由主義の伝統、広範な貿易を根拠に、両国民の間に「特別な関係」を感じていた。この有権者たちが戦争を拒否し、アメリカ側への譲歩をロンドン政府に強制した。1861年後半におきたトレント号事件の間、ロンドン政府は一線を引いてワシントン政府は撤退した。 1844年から1848年までの間に両国はオレゴンに重複する領有権を主張した。領域は多くが境界未定だったこともあり、その地域を(それぞれ、ブリティッシュコロンビアをグレートブリテン王国に、ワシントン、アイダホ、オレゴンをアメリカに)均等に分割する妥協によって、1848年の危機を容易に終わらせた。アメリカ合衆国は当時、テキサス併合を巡る戦争の脅威となっていたメキシコに注意を向けた。イギリスはメキシコの緊張を和らげようとしたがうまくいかず、戦争が始まると中立に留まった。アメリカ合衆国は、イギリスがほんの一時だけ関心を示していた、カリフォルニアを獲得した。
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