1815年フランス戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 17:07 UTC 版)
「第七次対仏大同盟」の記事における「1815年フランス戦役」の解説
ナポレオンは、諸国に皇帝復位を認めさせるためには、同盟軍を撃破しなくてはならなかった。この時、ウェリントン公の率いるイギリス・オランダ連合軍と、ブリュッヘルの率いるプロイセン軍はベルギー方面にあり、オーストリア軍はライン方面と北イタリアに展開していた。ナポレオンは同盟軍が合流する前に各個撃破すべく、フランス軍主力を率いてベルギーへ向かった。 6月15日、フランス軍はリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかしその側面を衝く予定であったネイ軍団が、6月16日のカトル・ブラの戦いでイギリス軍によって足止めされたため、プロイセン軍の撃滅には失敗した。プロイセン軍ではブリュッヘルが重傷を負い、代わって参謀長グナイゼナウが指揮をとった。ナポレオンはグルーシーに一軍を与えてプロイセン軍の追撃に派遣し、自身はウェリントン公の率いるイギリス・オランダ連合軍と決戦するためにワーテルローへ向かった。 6月18日、フランス軍7万2,000とイギリス・オランダ連合軍6万8,000がワーテルローの戦いで激突した。イギリス・オランダ連合軍はフランス軍にじりじり押されていたが、グルーシーの追撃を振り払ったプロイセン軍が戦場へ到着してフランス軍の側面へ猛攻をかけ、フランス軍は潰走した。プロイセン軍の追撃によってフランス軍は完全に崩壊した。
※この「1815年フランス戦役」の解説は、「第七次対仏大同盟」の解説の一部です。
「1815年フランス戦役」を含む「第七次対仏大同盟」の記事については、「第七次対仏大同盟」の概要を参照ください。
- 1815年フランス戦役のページへのリンク