1816年以降の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/25 14:57 UTC 版)
「ブラウンシュヴァイク近衛大隊」の記事における「1816年以降の展開」の解説
フランスから帰還すると、ブラウンシュヴァイク公国軍は著しく縮小され、ドイツ連邦から求められた最小限の部隊が武装を保持するのみとなった。まず4個歩兵大隊が解隊され、1822年にはさらに2個が削減されている。その中で近衛大隊は残った。 続いてカール2世が政権に就くと、ブラウンシュヴァイク軍は完全に改編された。旧来の近衛大隊は第1戦列歩兵連隊の第1大隊となり、「猟兵大隊」(Jäger-Bataillon )とも呼ばれた新しい近衛大隊が最精鋭の軍人から編成される。他の大隊にプロイセン風の青い軍服が支給された一方で、この近衛大隊は伝統的な黒い制服を保持した。 1830年にカール2世が追放されると、弟のヴィルヘルムが政権に就き、派手好きな兄が拡大した軍をすぐに再び縮小する。近衛大隊は解隊された第1戦列歩兵連隊の、第2大隊の兵員を収容したが、その後も自主的な部隊として残った。「第92ブラウンシュヴァイク公国連隊」(Herzoglich Braunschweigisches Infanterie-Regiment Nr. 92)の「フュズィリーア大隊(近衛大隊)」(Füsilier-Bataillon (Leib-Bataillon))となったのは1867年に入ってからである。 この大隊はプロイセンと軍事協定が結ばれた後、同連隊の「第3(近衛)大隊」(3. (Leib-)Bataillon)と改称する。これも1893年には存在しなくなり、1897年4月1日にブランケンブルク (Blankenburg) で創設された「第165歩兵連隊」(ハノーファー第5歩兵連隊、 5. Hannoversches Infanterie-Regiment Nr. 165)に1個中隊を形成するのみとなった。
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