1817年 - 1821年
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「西インド諸島海賊掃討作戦」の記事における「1817年 - 1821年」の解説
西インド諸島の海賊に対する作戦に最初に従事したアメリカの艦船は、スクーナーのUSSエンタープライズ、USSノンサッチ、USSリンクスと砲艦の158号、168号であり、1817年から1822年まで動員された。これらの艦船は全て単独で行動し、戦隊が設立されるまで指揮官が居なかった。この時期の海賊の多くはラテンアメリカのものであり、私掠船を兼ねていた。スペインに対する革命が広がり、革命政府もスペインも私掠免許状を発行した。私掠船はアメリカ商船を捕獲し、その乗組員を攻撃することが多かったので、海賊と呼ばれることになった。1819年、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローが、フリゲート艦USSコンステレーション、コルベット艦USSジョン・アダムズ、USSノンサッチの戦隊で、オリバー・ハザード・ペリー代将をベネズエラに派遣した。ペリーが受けていた命令は、ベネズエラ私掠船に捕獲されたアメリカ商船の返還を要求し、二度とアメリカ商船に対する私掠行為を行なわないよう保証を取り付けることだった。ペリーはその任務を完遂して、条約が8月11日に調印されたが、その帰路にトリニダード島で黄熱病のためにペリーが急逝したので、合意が取り消された。1817年12月22日、ジョン・アダムズが海賊のルイ・オーリーに対して、フロリダ州アメリア島の基地を明け渡させた。後にジョン・アダムズはビドル代将戦隊の旗艦になった。 1820年までに、海賊や私掠船との敵対関係が強くなり始め、アメリカ合衆国の艦船が何度か海戦を行ったが、この年に全部で27隻のアメリカ商船が捕まっていた。1818年から1821年の間に、USSエンタープライズはまずニューオーリンズ戦隊で、後に西インド諸島戦隊で従事し、13隻の海賊船と奴隷船を捕獲した。1819年10月24日、J・R・マディソン海軍大尉の指揮していたUSSリンクスがメキシコ湾で2隻の海賊スクーナーと2隻の船を捕獲し、11月9日にはガルベストン湾で別の海賊船を捕まえた。USSリンクスはジャマイカに向けて航行していた1820年1月に行方不明となり、嵐のために沈んだ可能性がある。その乗組員の誰も見つからなかった。 1821年10月、USSエンタープライズがキューバのアントニオ岬沖で航行しているときに、4隻の海賊船に捕まえられていた3隻の商船を救うことになった。ボートが降ろされて、海賊を攻撃し、結果的に40人以上の海賊を殺し、2隻の海賊船を捕獲した。その1か月後、エンタープライズはアントニオ岬近くの海賊基地を攻撃し、その地域の海賊を一掃した。1821年9月、アメリカ商船3隻がキューバのマタンサス沖で虐殺された。1隻の乗組員は拷問され、その船は火を付けられたが、生存者はボートで岸まで辿り着いた。2隻目の商船では3人が殺され、3隻目は乗組員が乗ったまま焼かれた。この事件が海賊掃討作戦を継続する主要な理由の1つになった。 USSホーネットは1821年10月29日に、モスコーという名前の私掠スクーナー船を捕獲し、12月21日には戦わずして海賊船を捕まえたが、その乗組員は岸まで逃げた。 1821年12月16日、USSパーポイズのジェイムズ・ラメイジ大尉がアントニオ岬沖を航行しているときに、商船ブリッグボリーナを含め敵船5隻を発見した。海賊の幾らかは岸まで逃げたが、多くは抵抗したので、アメリカのボート5隻が海賊船5隻を焼いて破壊した。ボリーナは解放した。その報告書に拠れば、海賊3名が捕獲され、数名が殺された。1821年秋、ジョン・エルトン大尉の指揮するUSSスパークがボストンを出港し、対海賊作戦に割り当てられた戦隊に加わった。1822年1月、エルトンはオランダの国旗を掲げていた海賊のスループ船を捕まえた。7人の捕虜を裁判のためにチャールストンに連行した後、スパークはカリブ海に戻り、その後の3年間任務に留まった。この時までに西インド諸島戦隊が公式に結成されていた。
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