1815年の大噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 17:29 UTC 版)
詳細は「1815年のタンボラ山噴火」および「夏のない年」を参照 1812年から火山活動が始まり、1815年4月10日から同年4月12日にかけての大爆発音は1,750キロメートル先まで聞こえ、500キロメートル離れたマドゥラ島では火山灰によって3日間も暗闇が続いた。高さ3,900メートルあった山頂は2,851メートルに減じ、面積約30平方キロメートル、深さ1,300メートルの火口が生じた。この大噴火による噴出物の総量は150立方キロメートルにおよび、半径約1,000キロメートルの範囲に火山灰が降り注いだ。地球規模の気象にも影響を与えた。 この火山灰によって農作物は壊滅的な被害を受けた。また、この大噴火後数か月にわたって世界各地で異常な夕焼けが見られ、この1815年の夏は異常に低温であった。同年、アメリカ北東部では異常低温となり、雪や霜が6月までみられた。イギリスやスカンディナヴィアでは5月から10月まで長雨が続き、異常低温による不作や食糧不足の事態が社会不安を引き起こした。さらに、翌1816年は「夏のない年」(Year Without a Summer)と言われた。 フランス人作家のヴィクトル・ユーゴーは、小説レ・ミゼラブルにて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と、イギリス人作家のメアリー・シェリーはフランケンシュタインの中で当時の天候について「多湿で不愛想な夏と降りやまない雨によって外出できなかった」とタンボラ山の大噴火によって引き起こされた異常気象について間接的に言及している。 この大噴火により、スンバワ島の中心集落であるタンボラは壊滅し、死者は1万人にのぼり、その後の飢饉、疫病によるものも含めれば7万人から12万人といわれている。住民の消滅に伴いタンボラでの口語であったタンボラ語もこの際に死語となっている。現在の活動は火口底の噴気活動だけである。 世界的に1.7℃の気温低下が見られた。スイスでは深刻な飢饉が見られた。 ただし、実際の地球の気温は上記の大噴火より前の1810年から10年間を通し、0.5度低かったことがわかっている。このことから、異常気象の原因を上記の大噴火とは別の噴火に求める説もある。実際、最新の地質調査により、1809年頃に地球上の熱帯地方のいずれかの位置にて、上記大噴火の半分程度の二酸化硫黄の噴出規模の噴火が起きたことが判明している。
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