1814年の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/07 17:57 UTC 版)
「パスクリスチャン (ミシシッピ州)」の記事における「1814年の戦闘」の解説
米英戦争の1814年12月12日夜、イギリス兵1,000名以上と42隻の艀がニューオーリンズに向かう途上で、シップ島とキャット島の間の水路を通り、ミシシッピ州の海岸を西に進み、パスクリスチャンの海岸沖を通過した。この部隊をマルーロー島沖に居たアメリカ船7隻を指揮していたトマス・アップ・ケイツビー・ジョーンズ中尉が密接に監視しており、イギリス軍は12月13日夜にパスクリスチャンの西端であるヘンダーソンズ・ポイントに停泊していた。ジョーンズはテンダー船のシーホースを航海士のウィリアム・ジョンソンに指揮させて、セントルイス湾に送り込み、公的貯蔵所がイギリス軍の手に落ちた場合に備えて物資を移動させる支援をさせた。続いてアリゲイター号をシャルマットに送り、アンドリュー・ジャクソン将軍にイギリス軍の接近を警告させた。 イギリス艦隊到着の報せは郡全体に広がり、14日の日の出頃には艦隊が通り過ぎるのを見るために崖の上に大群衆が集まった。崖の下アルマン・アベニューで弾薬を積もうとしていたシーホースを拿捕するためにイギリス船3隻が派遣された。集まった群衆の中に松葉杖を突いた年配の女性、ミス・クレイボーンがおり、ナチェズからここに来ていた。午後2時頃、今にも起ころうとしていた攻撃を監視していたクレイボーンは、「我が国を守るために誰も一発を放たないというなら」と言って、トゥルム市長の葉巻を取り上げ大砲の一門に点火した、と言われている。その砲弾はシーホースの上を飛び越え、接近して来ていたイギリス船近くに着弾した。シーホースのジョンソン船長は岸からの応援砲撃があると考え、その機会を捉えてイギリス艦隊を攻撃した。ジョンソンの船の甲板には6ポンド砲1門があり、半時間の激しい砲撃によってイギリス艦隊は後退した。イギリス艦隊はさらに4隻の艀が加わり、7隻となって攻撃を再開した。ジョンソン船長の防御は勇敢なものだったが、イギリス軍が数で優っていたので、その小さなスクーナーが捕まえられるよりも、自爆させる道を選んだ。 ミシシッピ・サウンドにいたアメリカ艦隊の残りは艀が4隻であり、マルーロー島とポイント・クリアーの間の西行きの海流に錨を降ろしていた。15日朝、イギリス艦隊はその海流に漕ぎ寄せてアメリカ艦隊から約2マイル (3 km) に達し、そこで攻撃の前に朝食の茶を飲み、休憩を取った。午前10時半頃、イギリス艦隊はトマス・アップ・ケイツビー・ジョーンズ中尉が指揮する勇敢な小艦隊に接近した。 12時40分までに戦闘は終わった。アメリカ兵6名が戦死し、35名が負傷した。イギリス軍は戦死17名、負傷77名となった。イギリス軍が大きな損失を出したことに加えて、この戦闘の大きな意義は、アンドリュー・ジャクソン将軍がシャルメットの防衛のためにより多くの兵士を集め、防塞を完成させるだけの時間を与えたことだった。ジャクソンは1815年1月7日におきたニューオーリンズの戦いでイギリス軍に勝利できた。 イギリス軍は事前に勝利を確信していたので、敵地を占領した後でそこを統治することを想定して文民を連れてきていた、さらにミシシッピ州の海岸にある諸島にはそれを待っている彼らの妻や子供達までがいた。しかし、ニューオーリンズでのアメリカ軍の大勝利はそれほど重要なものではなくなった。なぜなら既に和平条約が調印されていたが、その知らせがメキシコ湾岸まで届いていないだけだったからだった。、 ミシシッピは1817年12月に州に昇格し、ミシシッピ州議会が最初に起こした行動は、パスクリスチャンとは湾を隔てて真向いのベイセントルイスを法人化し、州都にさせることだった。議会の朝の会期では法人化が成立したが、午後の会期ではランキン郡の代議員がその投票先を変更し、ナチェズ市が州都に指定された。ナチェズはその後の2年間州都だったが、その後はジャクソンに移転され、それが現在まで続いている。
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