過去の地震の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:55 UTC 版)
東南海地震の震源域単独の発生が確かなものは上述の1944年の地震のみである。江戸時代に発生した地震は東海地震や南海地震と連動したと考えられているが、それ以前は諸説あり詳細は不明である。以下に東南海地震が震源域として含まれていると推定されている過去の地震を示す。新暦は明応地震以前はユリウス暦、慶長地震以降はグレゴリオ暦で示している。マグニチュードは宇佐美(2003)による推定値であるが古い時代のものは断片的な記録しか存在せず精度も低く、またモーメントマグニチュードではない。 684年11月26日(天武天皇13年10月14日) 白鳳地震(天武地震) M81⁄4 - 土佐の地盤沈下や津波は南海地震と思われる記録だが、発掘調査により東海・東南海地震も連動したと推定される。愛知県一宮市の田所遺跡の7世紀後半の噴砂の痕跡が東南海地震震源域に相当する。 887年8月22日(仁和3年7月30日) 仁和地震 M8.0-8.5 - 五畿七道諸国大震、摂津の甚大な津波は南海地震を示唆する記録だが、発掘調査により東海・東南海地震も連動したと推定される。愛知県稲沢市の地蔵越遺跡の平安時代前期の層における噴砂の痕跡が相当する。 1096年12月11日(嘉保3年11月24日) 永長地震 M8.0-8.5 - 畿内、琵琶湖、および揖斐川付近の強震動および津や駿河の甚大な津波被害により、東海・東南海地震の連動とされる。この地震の2年2ヶ月後に南海地震(康和地震)も発生。 1361年7月26日(正平16年/康安元年6月24日) 正平地震(康安地震) M81⁄4-8.5 - 南海地震と思われる記録だが、発掘調査により東南海地震も連動したと推定される。愛知県木曽川町の門間沼遺跡における14世紀前半の土壙中に広がる墳砂痕および、伊勢神宮の『神宮文書』による「外宮正殿の御壁板が抜け懸け、御束柱が顛倒」の記録が相当する。2日前の7月24日(6月22日)に起った地震が熊野灘以東を震源域とする正平東(南)海地震であったとする見方もある。 1498年9月11日(明応7年8月25日) 明応地震 M8.4 - 東海地震・東南海地震の連動とされるが、発掘調査により南海地震も連動したと推定される。 1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(東海・東南海・南海地震とされてきた) M8.6 - 東海地震・東南海地震・南海地震が連動。 1854年12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震 M8.4 - 東南海地震と東海地震が連動。32時間後に安政南海地震も発生。 1944年(昭和19年)12月7日 昭和東南海地震 M7.9 (Mw8.2) - 2年後に昭和南海地震が発生。 以下は、南海トラフ巨大地震が100-150年程度の再来間隔を持つとする定説の下、地質調査で推定された地震である。慶長地震は、地震調査研究推進本部による2001年(平成13年)時点の長期評価では、南海トラフの地震の系列に属すものと評価されてきたが、遠地津波も否定できないとする見解や、南海トラフの地震でなく伊豆小笠原海溝沿いを震源域とする見解も出されている。 紀元前1500年頃 東京大学、高知大学、海洋研究開発機構などの調査チームによる地球深部探査船「ちきゅう」を使った海底地層の掘削調査により1944年(昭和19年)の痕跡と共に、従来は知られていなかった紀元前1500年頃の活動の痕跡が発見された。 13世紀前半頃の地震痕 - 歴史記録は確認されていないが、和歌山県那智勝浦町川関遺跡の砂礫層や、箕島藤並遺跡の液状化痕が東南海地震を含む南海トラフ巨大地震の痕跡とされる。 1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(東海・東南海・南海連動型地震?、異説あり) M7.9 - 津波地震。南海地震も連動したとされ、さらに房総沖の地震が同時発生したとする説とする説等もあるが、詳細は不明である。
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