起工まで
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もともと、不動産開発を手がけていた北大阪土地が、千里丘陵で宅地と霊園の開発を行うに当たって計画した路線である。同社は以前も、尼崎などを起点に千里を目指す路線の敷設計画を2度出していたが、いずれも却下されており、3度目の申請が1916年(大正5年)9月1日にようやく通ったものであった。 しかし免許は受けたものの、施工予算の問題があってなかなか具体化させられず、3回も施行認可申請受付期間の延長願を出さざるを得なかった。この間発起人の顔ぶれがかわり新たに加入した伊藤英一が発起人総代となった。結局、吹田駅 - 大阪駅(梅田)間で線路の付け替えを行っていた東海道本線廃線跡の払い下げを受け、当初自力で大阪市街(天神橋筋六丁目、天六)への乗り入れを行う予定であったところ、新淀川橋梁の架橋予算を削減するため暫定的に阪神急行電鉄(後の阪急電鉄)十三駅へ乗り入れ、同社線経由で連絡を図る計画に変更するなどして、1918年(大正7年)11月24日にようやく会社を設立し、1920年(大正9年)2月13日に着工した。
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起工まで
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「山梨県庁舎別館 (旧本館) 及び県議会議事堂」の記事における「起工まで」の解説
初代の山梨県庁庁舎は1874年(明治7年)に当時の藤村紫朗県令によって着工され、1877年(明治10年)11月に竣工した。当時としては斬新なデザインと規模を誇り、ギヤマン堂の異名がつけられた。その後数次にわたって庁舎の増築が行われたものの、県庁の機構が拡大し、更に1923年(大正12年)の郡制廃止に伴って県庁職員が大幅増員となったため、県庁庁舎は手狭となっていた。また建築後50年近くが経過し、建物自体の老朽化も目立つようになり、震災時の危険性が指摘されるようになった。 こうして県庁庁舎の改築が進められることになったが、同時に県議会議事堂の改築を行い、また県庁庁舎、県議会議事堂とともに、1900年(明治33年)に建てられた甲府中学校の移転改築も一緒に行う案が持ち上がった。甲府中学校の定員は1900年当時よりも増加し、中学校校舎も老朽化が目立っており、狭く老朽化した校舎の移転改築が望まれていたのである。そこで狭隘な初代の山梨県庁庁舎と県議会議事堂の敷地から、隣地である甲府中学校の土地への移転を行うとともに、甲府中学校の移転改築を進める計画が進められることになった。 新たに県庁庁舎と県議会議事堂が建設される予定となった甲府中学校の敷地は、もともとは甲府城の城内であった。戊辰戦争時に板垣退助らによって無血開城して廃城になった後、甲府城の敷地内には現在の甲府駅や醸造所などが建てられ、その後、甲府中学校が移転してきた。 当時は深刻な不況下にあったため、当事業に際して新たに起債することや増税で工事費用を賄うことは困難であると判断され、県庁庁舎、県議会議事堂の敷地とともに、他の県有地の売却、更には旧甲府城の堀を埋め立てた上で売却し、旧庁舎で使用された古材までも売却し、また寄付金を募ることによって県庁庁舎、県議会議事堂、中学校の移転改築を進めることになった。 計画が明らかにされると文化財保護の観点から反対意見が出たほか、改築は時期尚早ではないかとの意見も出された。結局、計画が審議された1926年(大正15年)度の県議会では、県民負担の増大を招かないとの条件付きで認める方向となった。県当局は山梨出身の事業家に県庁庁舎、県議会議事堂の敷地、及び他の県有地の売却益が見込みを下回った場合、工事の入札額を県側の予定金額で引き受けるとの内諾を貰い、更に改築に際しての寄付金35万円が得られたことによって、県議会は県庁庁舎、議事堂、中学校の移転改築計画を了承した
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