藤堂安家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 01:31 UTC 版)
高知県宿毛市生まれのタカハシパールの創業者で日本における真珠加工術の元祖。大正期に真珠の加工染色技術を確立(1922年)、これをきっかけに神戸の北野町に真珠加工の会社が次々と創立され、これがパールストリートの始まりといわれる。その後、神戸が昭和期に入ってからの真珠業界の発展と海外の市場との流通の拠点となった。 商品的ハーフ・パールの製造工程は独自の技術であり、その方面でも元祖であった。真円形真珠養殖が発達し、生産品が流通した当時の商品真珠は、関係者の手によって完全に選別された傷やシミのないものだったために、市場で高値が付いた。ところが、残された多数の除外品の処分問題が発生する。当時海外でも、しみ抜き技術は開発されていなかったが、1922年(大正11年)の春に、藤堂による、過酸化水素水の活用によるシミ抜き技術の開発により解決された。 藤堂の実家は、明治初期に屋号を「油屋」または「やまみ」と名乗るよろず屋であったが、当主の利七の先祖は川之江の豪族で、伊予の宇和島城に藤堂高虎が居を構えたころの豪族であった。明治維新に藤堂一族は土佐に定着し武家商法を行い、利七は漁村の者らを相手にしたよろず屋経営を始めた。一族は土地の有力な基盤を有していたため信望が厚く、近郷一円に油屋の存在は知られるところとなる。 安家が15歳の頃に、三重県鳥羽方面では御木本幸吉が半径真珠の養殖を手掛けていた。安家は家業を手助けしながら成人し、22歳の頃には、政治に足を入れていく。第4次伊藤内閣の農商務大臣の林有造と接触。秘書のような存在となる。1913年(大正2年)以降、藤田昌世が西川藤吉発明の真円真珠養殖法を使い宿毛湾や御荘湾で試験養殖を秘密裏に行い、世界初の真円真珠養殖真珠を生産し大阪では空前の相場が形成されたと世界の真珠史にも記録されている。この際に安家の親譲りの全財産が林有造の資本とともに投入されたのが1915年(大正4年)。真珠会社「予土真珠会社」の大株主として参加していた。空前の成功の後、会社は増資し、安家も大金を再投入した。が、1920年(大正9年)に宿毛湾を襲った未曾有の水害と土砂崩れにより、養殖場と施設は壊滅的な打撃を受け、水泡と化した。安家は自活の道を求め、単身大阪へ出る。 その後大阪で、様々な事業を始めるが失敗。従兄弟の中山幸一(中山真珠商会の祖)と真珠のシミ抜き技術の話題になる。安家は日蓮宗の熱心な信者でもあったため、毎月、付近にあった「野瀬の妙見」へ土佐から呼び寄せた娘・三代子の手を引いて参拝した。ある日、妙見からの帰り道に、安家の脳裏に「何としてもオキシフルでやってみたい」というひらめきがあり、通り道の三省堂薬局でひと瓶のオキシフルを買い求めた。1922年(大正11年)春のことであった。 自宅で様々な方法でオキシフルを使った実験が繰り返され、ついにシミ珠が白やピンクになる手法を開発。予土真珠時代からの藤田昌世や従兄弟の中山幸一らと合資会社小富士商会を創設。社長に長男藤堂利三郎を据え、自らは会社を補佐した。これが日本における真珠加工会社の元祖となる。
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