藤堂家・加藤家による伊予二分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 18:38 UTC 版)
「伊予八藩」の記事における「藤堂家・加藤家による伊予二分」の解説
関ヶ原の戦いの直前、伊予国を治めていたのは、小川祐忠(国分7万石)、来島康親(野間郡・風早郡1万4000石)、安国寺恵瓊(和気郡など国内に6万石)、池田高祐(大洲2万石)、加藤嘉明(松前10万石)、藤堂高虎(板島8万石)であった。 かれらのうち、関ヶ原の戦いで東軍についたのは加藤嘉明と藤堂高虎のみであり、両者によって伊予国(40万石)は二分され、それぞれ20万石の大名となった。両者の従来の所領があった南予は藤堂領、中予は加藤領となり、東予では領地配分がなされた。太閤検地による石高を基準に郡ごとに両者の石高が均等になるよう徳川家康が大まかな取り分を示し、現地で細部を決定したとみられる。加藤嘉明は旧領内の温泉郡に松山城を築き(伊予松山藩参照)、藤堂高虎は瀬戸内海に面した新領地の越智郡に今治城を築いた(今治藩参照)。
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