船舶による連絡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「船舶による連絡」の解説
山陽本線を建設した私鉄の山陽鉄道は、1901年(明治34年)5月27日に馬関駅(1902年(明治35年)6月1日に改称して下関駅)までが全通した。この時点での下関駅は、細江町に所在していた。一方、九州の鉄道網を建設した初代九州鉄道は、これより前の1891年(明治24年)4月1日に門司駅までを開通させ、九州地方一円に順次鉄道網を張り巡らせていった。 山陽鉄道ではこの間の連絡を図り、鉄道がまだ徳山駅までの開通だった1898年(明治31年)9月1日から、山陽汽船商社を通じて徳山 - 門司 - 赤間関(下関)間の3港間連絡航路を開設した。鉄道が馬関まで伸びると、山陽鉄道は直営で馬関 - 門司航路(関門連絡船)を開設し、本州と九州間の鉄道同士の連絡を行うようになった。 鉄道国有法により山陽鉄道は1906年(明治39年)12月1日付で国有化され、関門連絡船も国有鉄道による運行となった。1907年(明治40年)7月1日には九州鉄道も国有化され、関門連絡とその前後の鉄道はすべて国有鉄道が運営するようになった。 関門間を通過する貨物輸送は、埠頭に引き込んだ貨物線に貨車を入れ、貨車から貨物を取り出して艀に積み替え、対岸へ艀を曳航して、再び貨車へ貨物を積み込む作業で行われており、積み替えの荷役費や荷造費、貨物の破損の損害などは多額に上っていた。このころ下関で海運業を営んでいた宮本高次という人物は、若いころにアメリカに渡って働いた経験があり、そのときに現地で鉄道の貨車を船に搭載して運ぶ「貨車航送」の様子を見たことがあった。そのためこれを日本に持ち込もうと考え、山陽鉄道およびその後継の国有鉄道に出願し、宮本が請け負って貨車航送を行うことになった。貨車航送では、貨車をそのまま船に搭載して対岸に渡すため、貨物の積み替えに伴う損害から解放され、積み替えの都合上取り扱いが制限されていた長尺物・石炭・砂利も取り扱えるようになり、連絡時間も大幅に短縮されることになった。1911年(明治44年)3月1日から日本で最初の貨車航送が開始され、9月末日限りで従来の積み替えを伴う輸送を全廃した。 貨車航送に伴う利便性の向上は著しく、輸送量は航送開始前の半年で貨車数にして下り4,762両、上り4,762両相当の貨物輸送であったのに対して、航送開始後の半年では下り8,987両、上り8,823両相当の貨物輸送に増加した。請け負う宮本は貨車1両の航送あたりで受け取る作業料で利益を上げ、国鉄側にとっても宮本に払う請負料は関門間の貨物運賃より安かったため純利益が出ており、さらに荷主に支払う貨物損傷の補填費用が不要となり、貨物輸送の増加や貨車の両岸での融通が可能となるなど、多大な利益を得ていた。荷主も貨物の損傷や紛失の減少に喜んだ。請負に伴う不便もあったため、宮本から設備一切を国鉄が買い取って1913年(大正2年)6月1日付で貨車航送を国鉄の直営とした。この貨車航送は、九州側では小森江付近に発着しており、門司に発着する旅客用の関門航路と区別して関森航路(かんしんこうろ)と呼ばれた。 「関門連絡船」も参照 関門航路(関森航路)の小森江桟橋の可動橋。貨車を連絡船に積載している 1929年の門司駅、後の門司港駅
※この「船舶による連絡」の解説は、「関門トンネル (山陽本線)」の解説の一部です。
「船舶による連絡」を含む「関門トンネル (山陽本線)」の記事については、「関門トンネル (山陽本線)」の概要を参照ください。
- 船舶による連絡のページへのリンク