航空学校の創設
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1919年(大正8年)4月15日、陸軍航空学校条例(軍令陸第8号)にもとづき、陸軍航空部が直轄する陸軍航空学校が所沢陸軍飛行場に開設された。条例の第1条で同校は「学生ニ航空ニ関スル諸般ノ学術ヲ修得セシメ(中略)且航空ニ関スル諸般ノ研究試験ヲ行フ所」と定められた。教育機関だけにとどまらず、臨時軍用気球研究会の任務を継承する研究機関としての性格も持ち合わせたのが陸軍航空学校である。学校の編制は陸軍航空部本部長に隷属する校長のもと、本部、教育部、研究部、材料廠、そして学生からなる。 前述条例により定められた被教育者の分類、および教育期間は次のとおり(1919年4月時点)。 甲種学生 高等操縦術を修習する者。基本操縦術を修得した各兵科の尉官、准士官、下士官。 修学期間は約5か月。毎年2回入校。 乙種学生 偵察、観測、写真、通信等を修習する者。各兵科の尉官。 修学期間は約2か月。毎年2回入校。 丙種学生 機関工術、射撃、爆撃等を修習する者。各兵科の尉官、准士官、下士官、兵。 修学期間は約2か月。毎年2回入校。 その他 臨時に各兵科の佐官、尉官を召集し、必要な教育を行うことも可(条例第3条)。 陸軍航空学校における操縦教育は甲種学生の要件があらわすように「高等操縦」であり、基本操縦は従来どおり候補者を各航空大隊に入隊させ、そこで基本操縦術を教育した。ただし学校条例第3条で臨時に各兵科の佐官、尉官を召集し「必要ノ修学ヲ為サシムル」ことも可能とされた。さらに同年4月28日、「陸軍航空学校ニ於テ民間ノ希望者ニ対シ航空術ヲ教授シ得ルノ件」(勅令第153号)により、陸軍大臣の定める民間の操縦志願者の教育も担当した。これには民間航空の発達を促進し、航空予備戦力とする狙いがあった。飛行機操縦者の増加が望まれていたが、志願者86名、採用者5名で始まった1912年の操縦術修業者第1期以後、事故殉職の多さから志願する将校は減り、1918年の第2次募集では採用予定30名に対して全陸軍からの志願者(中尉または少尉)が31名まで低下した。このため1919年より下士官の操縦者教育も行われることになった。 教育部とともに学校の二本柱を形成する研究部は部長以下68名(設立時)と人数を多くとり、飛行機班、発動機班、装備班、実験班、気象班に区分された。各班に3名から5名の将校と、技師および技手、職工が配置された。こうした編成は航空技術の研究を分業的にし、専任的技術者の端緒となった。臨時軍用気球研究会が行ってきた研究のうち、学理的なものは東京帝国大学附属航空研究所にまかせ、学校研究部では審査研究および実用研究を主流とし、設計製作も行った。陸軍航空学校の開設当初、所沢には臨時軍用気球研究会、航空第1大隊および気球隊が置かれており、各種教育と研究の実施に十分な広さではなかったが、同委員会は業務を陸軍航空部および陸軍航空学校に継承し1920年(大正9年)5月廃止された。同年同月、航空第1大隊も各務原に移転した。 陸軍航空学校の開設と前後して1919年1月より11月までジャック=ポール・フォール(フランス語版)大佐を長とするフランス航空団57名が来日し、教育指導、技術開発指導その他を行う画期的な出来事があった。その際、偵察および観測(砲兵射撃観測)の教育は、砲兵部隊との連携が重要なため千葉県の陸軍野戦砲兵射撃学校に近い下志津陸軍演習場で、空中射撃の教育は流れ弾が危害を及ぼさないよう浜名湖畔の静岡県新居町で行われた。フランス航空団の帰国後も陸軍航空部は教育実施の立地を重視し、陸軍航空学校に分校を開設することを企画、綿密な調査を行った。
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