自民党幹事長
自由民主党幹事長
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自由民主党幹事長(じゆうみんしゅとうかんじちょう)は、日本の政党である自由民主党の幹事長。自由民主党総裁を補佐し、党務を執行する役職である[1]。総務会長・政務調査会長・選挙対策委員長とともに、党四役として総裁を補佐する。
注釈
- ^ 2004年から2006年まで自民党幹事長を務めた武部勤によると、首相官邸の首相執務室にいる時に官房長官と話をするために官房長官室に向かおうとすると、「幹事長が行くものではない。今ここに呼ぶ。ここで話をしたらいい」と言われ、官房長官が首相執務室に訪れた。また自民党政権下では自民党幹事長が首相を訪ねることはあっても、官房長官を訪ねることはないとされ、必要があれば官房長官が自民党本部の幹事長室を訪ねるという。
- ^ 中選挙区制時代には、1つの選挙区に自民党の候補者が複数立候補するため、派閥の力関係が候補者の資金や公認の割り振りに直結し、派閥の存在意義となっていた。
- ^ なお、旧総務局長や選挙対策総局長は幹事長に指名権があったため、幹事長の権限の一部を総裁に移譲する意味も持つ。
- ^ 鈴木は新総裁派閥の大平派における総裁選指揮担当者であり、また田中角栄との密接さでも知られていたため、反田中角栄を掲げる反主流派の反発を招いた。
- ^ 実際には田中・竹下派ではない幹事長も存在するが、他派閥のなかでも同派と良好な関係の人物が起用された。例えば田中六助など。
出典
- ^ 自民党党則第8条1項。
- ^ 官僚人事、誰が決める:官邸主導で何が変わったか | nippon.com
- ^ 日本政治のアクターと政策決定パターン
- ^ “(元幹事長に聞く)武部勤氏 人事、脱派閥で苦心”. 日本経済新聞. (2016年8月28日) 2021年12月11日閲覧。
“自民党政調会長って外務大臣よりもエラいの? いまさら聞けない肩書の基礎知識”. デイリー新潮. (2017年8月4日) 2021年12月11日閲覧。 - ^ 【図解・政治】衆院内の議員控室、時事ドットコム、2009年。
- ^ 高安健将「自民党の組織構造と首相の権力」『選挙研究』第30巻第2号 2014年
- ^ 小宮京「保守党における派閥の一考察」『選挙研究』第26巻第1号 2010年
- ^ a b c d e f 浅川博忠 2002, p. 59.
- 1 自由民主党幹事長とは
- 2 自由民主党幹事長の概要
- 3 概説
- 4 総幹分離
- 5 補佐職
- 6 歴代の幹事長・幹事長代行
- 7 記録
自由民主党幹事長
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2014年9月3日、第47代自由民主党幹事長に就任。自由民主党総裁経験者の幹事長就任は初めて。そして同日午前中の記者会見では、年末の消費税10%引き上げに関して、法律上は8%から10%に引き上げるためのレールが敷かれており、基本的には法律に則って進める考えを示す一方で、同時に景気情勢をよく見ていかなければならないと述べた。また安倍晋三首相からは「諸般の事情もよく目配りして進めてほしい」と指示があったことも明かした。
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自由民主党幹事長
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2003年9月、衆議院解散を控える中で自民党の選挙の顔となる幹事長である山崎拓の性的なスキャンダルが持ち上がったため、小泉は後任幹事長として安倍を抜擢した。閣僚も党の要職も未経験であった安倍の幹事長就任は異例であり、事前には筆頭副幹事長もしくは外務大臣への就任が有力視されていたため、小泉の「サプライズ人事」として注目を集めた。また、自民党は総幹分離の原則が長く続いており、総裁派閥幹事長は1979年の大平正芳総裁時代の斎藤邦吉幹事長以来24年ぶりであった。11月投票の第43回総選挙で与党は安定多数の確保に成功したが、自民党単独では選挙前の過半数から半数割れとなった。ただし前回選挙からは当選者増でもあり、幹事長に留まる。 幹事長時代には自民党内で恒常化していた「餅代」「氷代」(派閥の長が配下の者に配る活動資金)の廃止、自民党候補者の公募制の一部導入など党内の各種制度の改正を行った。2004年4月の埼玉8区補欠選挙では、自民党史上初の全国的な候補者公募を実施した(公募に合格した柴山昌彦が当選)。 同年夏の参議院選挙では、目標の51議席を下回れば「一番重い責任の取り方をする」と引責辞任を示唆。結果は49議席で、しばらく現職に留まった後で辞任した。同年9月から後任の幹事長の武部勤の強い要請を受ける形で党幹事長代理に就任した。幹事長経験者の幹事長代理就任も異例の事であった。 2004年、党改革推進本部長に就任。
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