自由主義と絶対王政の対立
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「ポルトガルの歴史」の記事における「自由主義と絶対王政の対立」の解説
1822年11月、ポルトガルでフランス革命の原則に基づく自由主義的な憲法が公布されるが、保守層は新憲法に反対して王子ドン・ミゲルを担ぎ出した。1823年、1824年の2度にわたってドン・ミゲルは反乱を起こすが失敗し、ウィーンに亡命する。 1826年にジョアン6世が没すると、反対勢力はブラジル皇帝となっていたペドロの王位継承権を否定し、ドン・ミゲルを国王に擁立する。イギリスの支援を受けたペドロはポルトガル王ペドロ4世として一時的に即位した後、7歳の娘マリアに譲位した。反革命勢力との妥協を図ったペドロは新憲法を廃止して司法・立法・行政の三権に国王が行使する調整権を加えた憲章を公布し、マリアとウィーンのドン・ミゲルを婚約させる。1828年7月、ドン・ミゲルはペドロとの約束を破棄してマリアから王位を奪い、絶対王政を復活させた。ミゲルの統治下で自由主義者は厳しい弾圧を受けるが、ポルトガルの民衆はミゲルの政権を受け入れ、1829年10月にはスペインもミゲルの政権を承認する。しかし、1830年のフランス7月革命によってヨーロッパの反動体制の伸長に歯止めがかかり、ポルトガルもその例に漏れなかった。ミゲル1世の背信行為に直面したペドロは帝位を息子のペドロに譲り、1832年に傭兵隊を率いてミンデロに上陸する(ポルトガル内戦)。 自由主義と絶対主義の対立によって起きた内戦は自由主義者の勝利に終わり、絶対主義陣営の拠点となってい修道院・修道会は財産を没収され、土地を失った。半島戦争、ブラジルの独立に重ねて、内戦と戦費調達のための外国からの借款はポルトガル経済に大きな痛手を与える。自由主義者間の内部抗争はより深刻化し、内戦の勝利に大きな役割を果たしながらも十分な見返りを得られていないと感じていた中小商人・工業家、失業した軍人たちは政府に不満を抱いていた。1836年9月に自由主義者の急進派が民衆を扇動して反乱を起こし、軍部も反乱軍に同調した(セテンブリスタの乱)。セテンブリスタ内閣はペドロが公布した1826年憲章を廃止して1822年の新憲法を復活させるが、穏健派との妥協点を探るため、1838年に1826年憲章と1822年憲法の中間的な憲法を公布した。セテンブリスタの内部分裂が進む中、1842年1月に法務大臣のベルナルド・ダ・コスタ・カブラルはクーデターによって政権を掌握し、憲章の復活を宣言した。 カブラルが実施した「上からの改革」の一つである遺体を共同墓地で埋葬する公衆衛生法は、伝統的な習慣を固持する農民の反発を引き起こした。1846年に北部ミーニョ地方で公衆衛生法や課税のための土地台帳の作成に反対した農民の反乱が起こり(マリア・ダ・フォンテの乱(ポルトガル語版))、ポルトガル内戦で敗れた教会勢力とミゲル派以外にカブラルと敵対するセテンブリスタや一部の憲章派も反乱を扇動したマリア・ダ・フォンテの乱は1か月で終息したものの騒乱は全国に波及し、ポルトガル政府はイギリス軍の支援を受けてかろうじて反乱を鎮圧することができた。 1851年にクーデターによって政権を奪取したジョアン・デ・サルダーニャは「刷新」と名付けた改革に着手する。1852年6月に憲章の修正によって下院に直接選挙制が導入され、保守派は刷新党、急進派は歴史党を結成した。1890年代までこの二党による議会政治が続き(ロタティヴィズモ)、ポルトガルの政情は一時的に安定する。ブラジル植民地の喪失後はポルトガル国内の開発が重視され、ワイン、オリーブ油、果物などのイギリス向けの輸出商品が盛んに生産される。輸出産業の振興に伴って道路・鉄道といった交通基盤も整備されると、これまで孤立していた内陸部の地域が接続され、開墾による農耕地の拡大が進展する。
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