脚本&撮影
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脚本クレジットの西沢裕子は、テレビで売れていて、翁長孝雄プロデューサーが連れて来た。監督の中島が『大奥㊙物語』のシナハンで、尼寺を取材していたため、資料はたくさんあり、新たな取材は必要なかった。 念願の主演映画を掴んだ藤は「この世界に入って5年目ですが、いざ主演となると気が重いです。でも飛躍できるいい機会ですから、頑張ります」などと話し、気の強い藤もナーバスになっていた。「失敗したら女優を辞めます」などと宣言し、黒染めの衣に純白の頭巾を被った尼さんスタイルで大ハッスル。先輩・三田佳子を相手にレズシーンを演じたり、ナマグサ和尚の若山富三郎に手籠めにされたり、およそ尼さんらしからぬご乱業ぶり。寒中、雪の降る中、スタンドインなしで滝に打たれるシーンも自身で演じる難行苦行続きで、4キロも体重を落とした。中島監督は「破戒の生活を送る尼僧という心理的表現の難しい役どころだけに、ずいぶん研究しています」と藤の役づくりを評価した。滝行のシーンで岡田から「藤を脱がせろ」と指示されていたが、俊藤浩滋の娘を脱がせられるわけがなく、また寄りの画は温水を使ったと中島は話している。 万里小路秀英を演じる三田佳子は、かつては佐久間良子と並ぶ東映の看板女優と称されたが、一本60万円、年6本の契約という安いギャラが不満でごね続け、「ヤクザものの男性映画が幅を利かし作品に恵まれない」、「愛欲ものはイヤ」などと、東映の企画の貧困を訴え、1967年3月に東映を退社した。この退社劇に三田の元マネージャーで、東映のレジェンド・マキノ満男の息子・マキノ公哉(マキノ晴光)創芸企画代表が関わっていたことから、東映首脳も手が出しにくく、円満退社の形での東映退社になった。一旦フリーになった後、創芸企画入りし、同社がマネジメントを担当した。松竹、日活やテレビにも出演したが、東映時代の精彩は見られず、松竹『夜のひとで』でトラブルを起こして、各社が敬遠し、映画界を干されるのではと噂され、第二の山本富士子になるとも言われたが、一転、NHKが大河ドラマ『竜馬がゆく』に起用を決めて持ち直した。しかし同ドラマでの評判が悪く挽回に至らず。またマキノ社長との不倫騒動が女性誌を中心にマスメディアに散々叩かれ、1968年秋に創芸企画を離れ、同社を退社してまたフリーになった。三田は傷心でもともと細い体がさらに痩せ、1968年の年内休養宣言をしたが、袂は分けても東映の幹部に三田ファンが多いため、古巣東映が救いの手を差し伸べ、2年ぶりに本作で東映に里帰りした。三田は東映のハダカ路線に抵抗した旗頭だっただけに"お色気シリーズ"で東映復帰とは、とマスメディアに皮肉られた。三田は「会社を辞めたからダメになったと言われたくない」「『尼寺㊙物語』は、美しい詩情のある素晴らしい作品。私の演じる秀英尊は、気位の高い超俗尼、単なるエロ映画と誤解させないためにも、私の責任は重大と思っています」などと話し、一人立ちして苦労を重ねた成果を認められたいと必死で取り組んだ。藤の主演映画で3年先輩にあたる三田としても藤には負けたくないところだった。細い体がさらに痩せた三田は、純白の衣を纏い、尼僧ぶりはさすがに凄艶。藤とともにスクリーンに只ならぬ妖気を漂わせる。「変わったねえ」とスタッフに声をかけられると「私も逞しくなったでしょう。でも東映はやっぱり懐かしいわ。よろしくね」などとソツなく応対した。三田は東映復帰を希望したとされるが、復帰はしなかった。 大原麗子は脱ぐ約束で現場に来たが、撮影時に「オッパイなんかペシャンコだし、絶対にハダカだけはイヤ」と、泣き出し、「うつ伏せのシーンしか撮らない」という条件を中島監督に飲ませて、背中だけ脱いだ。背中だけでも大原が脱いだとニュースになり、取材に対して大原は「慣れたらとても気持ちいい。赤ちゃんになった気分ネ」などと強がった。女優を脱がせる役ばかりさせられて女性の裸を見ると胃が痛くなるという奇病を発症した中島監督ではなく、他の厳しい監督だったら脱がされていたかもしれない。
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